藤袴
「あ」
「え」
門に差し掛かったところで会った男に見覚えがあったが、誰であるかが思い出せない。
あ、と言われたのだから相手も私を知っているのだと思うのだけど。誰だ。
門に入ろうとしているから学園の関係者だろう。
もしかして在学中の後輩?いや違う違う。そんな小さいころじゃない。
まあ、いいか。相手も特に話しかけてくる様子もないし。
会釈だけして門に入った。
食堂にて学生が授業を受けている時間に、久しぶりのおばちゃんの料理を一人でいただく。
相変わらずおいしいが、昔に比べれば老けたおばちゃんが一人で食堂を仕切るのを見ると少し切ない。別に感傷に浸りに来たわけじゃないのに。
「あ」
「え」
入口にさっきの人がいた。釣り目がちの若者。
今度は向こうが会釈した。同じように返す。
「あら、利吉君。ご飯食べに来たの?」
おばちゃんの知り合いらしい。利吉・・・。う〜ん、分からない。
「ええ、おばちゃんの料理が食べたっくって」
「あら、嬉しい。何にする?」
「えっと、じゃあA定を」
「はいはい、ちょっと待っててね」
おばちゃんが奥に消えると、また目があった。戸惑ったような妙な顔をされる。
向こうは私を覚えているのか。
何気ないふりをして探ってみよう。
「こんにちは」
少し愛想のいい笑みを作って声をかけると、一瞬あっちの眉間に皺が寄ったが、すぐに向こうも好青年の顔を張り付けた。
「こんにちは」
「学園出身の方?」
「いえ、外部の人間ですよ」
やっぱり後輩ではない。学園内で会ったって確率は低そうだ。
「そうなんですか。今日はお仕事で?」
「まあ、そんなところです」
曖昧だな。
「あの、気を悪くなさったらごめんなさい。どこかでお会いしませんでした?」
利吉と呼ばれた青年は一度キョトンとした目をすると、すぐに困った顔をした。
「さあ、どうでしょう。どことなくお顔を存じ上げている気はするのですが、どうにも」
「あら、そうですか。実は私もお顔を拝見したことがあるような気がするのですが、どこでお会いしたのかさっぱりで。あ、失礼しました」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ない」
崩れないな、顔。
分かるのはこの男が嘘付きということだけだった。
就学していた時の担任に挨拶し、職員室で団子と茶を頂くと今から授業だから待っているように言われた。
狭い敷地でもないのによく会うものだ。
「あ」
「どうも」
茶をすすると、何故か相手が近付いてきた。
「卒業生だったんですね」
「ええ。もうだいぶ前ですけれど。どなたからかお聞きになられたんですか」
「はい。探るようで申し訳ない」
「いえ、お気になさらず。やましいことはありませんから」
「ふっ」
男は馬鹿にするように笑った。
不愉快に思うも、その顔にどこか見覚えがあった。
「何か?」
「いえ、こちらの卒業生でしたら多少探られて痛い腹はあってもおかしくないでしょう」
「嫌なことおっしゃるのね。今はもう、そんなものありませんのよ。まあ、昔でしたら多少は・・・」
ふっと、かすめる記憶。男の顔を見上げる。
「あんた・・・」
男は不思議そうに私を見降ろした。
「食い逃げ野郎じゃない!!」
私が指でさすと、男は一瞬驚いてすぐにおかしそうに口を歪めた。
「ひどい言われようだ。そういう言葉を使うなら、あなたは詐欺女だ」
「さっ!」
言い返そうと思ったが、その通りなので言い返せない。
「だいたい食い逃げって、半分も食べてませんよ」
「一口食って逃げりゃ食い逃げだわ。あー、終わったことでこんなに腹立つの初めて」
「そうそう、終わったことだから水に流してしまいましょう」
爽やかに笑う顔に舌打ちする。
すっかり思いだした。
こいつは二年前私が口説いた男だ。もちろん仕事で情報を聞き出すために。
適当に焦らしつつ長期的に内情を引き出してやるつもりだったのに、五日後、私の身元がばれて姿を眩ませた。引き出した情報はほぼ零。
ガキのくせに妙に落ち着いた男だった。
あれから色々仕事もこなしつつ、最終的にそういった爛れたものから足を洗い、今ではまっとうに働いている。
水に流した方がいいのかもしれない。
「最初は本当にただの町娘だと思ってましたよ」
「そう、ありがたいわ。それなりに自信を持ってやっていたから」
相手の顔が悲しそうに笑う。
「あなたの正体を知ったときは本当に驚きました」
「私もあなたに逃げられた時は驚いたわ」
獲物が忽然と塒から消えたんだから。
自分の失敗かと思ったけど、原因は情報経路にまぎれていた鼠の仕業だった。
まあ、それを見抜けなかったってとこでは十分に過失があるけど。
「今、何されてるんですか」
「大したことしてないわ。さっき言った通り、やましいことなんてない仕事よ」
「私に興味は?」
聞き返せってこと?
「あなたは何をしてるの?」
「今はちょうど仕事が終わって休養に入ったところです」
「そう」
この男はまだあの仕事をしているんだ。
「あ、申し遅れました。私、山田利吉と申します」
急に畏まった相手に思わず笑ってしまう。
「ご丁寧にどうも。私はです」
ふっと相手の目が緩んだ。
「やっと、名前を聞けました」
そういえば前は偽名で呼び合っていた。
「そうね。名前も知らなかったのね」
彼と会っていたのはたった五日で、それも二年前でさっきまで存在すら忘れていたというのに、どうしてこうも懐かしいのか。
「前は探しても見つからなかったんだけど」
せっかく掴んだ情報源を逃すのが惜しくて、あの時はこの男を捜したものだ。
「会ったのが今でよかった」
きっとあの時彼を見つけ出していたら、ゆっくり話すことはなかった。
「私もそう思います」
彼は私の隣に腰かけると、擦れた態度で私を見た。
「私に興味はありませんか」
どうもこういう雰囲気は反射で返してしまう。
「文句が下手だわ」
「手厳しい」
苦笑する彼はまた真顔に戻ると、じっと見つめてくる。
「捜しはしなかったものの、私はずっとあなたのこと覚えていましたよ」
すっと腕が伸びてきて、私の手を掴もうとしたので大人しく貸してあげた。
綺麗な顔をしているのに、手は荒れ気味で固い。
「忘れられていてちょっと寂しかったです」
「子どもみたいね」
「大人に子ども扱いされると、子どもは傷つくものですよ」
さらさらと手の甲が撫でられる。
「あなたはどうですか、って聞いても私のこと忘れてましたもんね」
「そうね、すっかり忘れてた」
「ならいっそ全部忘れたことにして、一から始めさせてもらえませんか」
「せっかく思い出したのに、また忘れなきゃいけないの」
「じゃあ、私の良かったところは覚えておいてください」
簡単にバカみたいなことを言うから、吹き出してしまう。
「ないわよ」
手を取り上げると、彼の手は少しだけ私を追った。
「じゃあ、全部忘れてください」
「二年時間をくれたらきれいさっぱり忘れてるわ」
「そんなに待てませんよ」
「わがままね」
そう言うと彼はにやりと笑った。
彼の手が私の頬をなでた。
「送って行きますよ」
「遠慮するわ」
帰り、門で待ち構えていた男に捕まる。
「釣れなくしないでください」
「はあ」
荷物を差し出すと、この男は嬉しそうに受け取った。猫っぽいのに犬だな。
「変な男」
「あなたによく似合うでしょう」
はあ、ともう一つ溜息をつく。何が嬉しいのか分からないが、男の口は弧を描いている。
「そうね、丁度いいわ」
歩き出すと隣に添う。
この山田利吉という男、今度は二年あっても忘れられないだろう。
