57話
胸が痛むたび、涙が止まることを忘れる。
苦しさで息が途切れると、一つ一つの場面が鮮明に想起される。
この学園に入学してから、つい先日のあの時までが。
嗚咽を止めようとすればするほど呼吸は止まり、胸の痛みは増すばかり。
「私は、こんなことを望んだんじゃない」
誰もいないことを確かめて、は壁に向かいながら呟いた。
誰にも言えはしない。友人にすら、話すことはできない。
自分の軽薄さが招いたこと。それを罪と捉え、は自分の殻に閉じこもる。
は勘右衛門の告白が本当だと信じ切れない。
この間までの存在に怯え、拒否していた勘右衛門。
のことが好きだった勘右衛門。
勘右衛門がを好きになる理由がの中には見当たらない。
見当たらないが、あの場面が夢でないことは承知している。
は自分の衣を強く握りしめた。
浮かぶ疑問。
三郎は知っていたのに、何故止めなかったのか。
止めてくれれば、知らずにいられたのに。
こんなにも苦しく思うことなどなかったのに。
罪悪感から逃れるための責任転嫁。すぐに自分の非に行きつき苦しさからは逃れられない。
こみ上げる思い。
辛い。どうしようもなく辛い。
逃げてしまいたい。土を掘り上げて、穴の中へ埋まってしまいたい。
辛い。想いを押しとどめておくことが。偽り続けることが。
浮かぶ人たちの顔。笑う顔、泣く顔、怒る顔、悲しい顔。
は唇を歯で強く噛んだ。唇の痛みは心ほどではない。
心が散り散りになっていく
自分が愚かであったことを痛感する
どこからあふれ出るのか分からない。
ただ自分を沈めてしまいそうなほど、後悔の念が零れ落ちる。
耐えきれない。
起きてしまったことは受け入れるしかない。
されど耐えられない。
未熟な精神は、「今」から逃げることを選ぶ。
「あのさ、三郎」
「ん?」
図書委員で雷蔵のいない三郎の部屋で勘右衛門は襖に背を付け、膝を抱えて座っている。
勘右衛門の呼び掛けに振り向かない三郎は、課題の為に筆を動かしている。
「俺、に言った」
一瞬、三郎の筆が止まるがすぐにまた動き始める。
「そうか」
その一言だけ。
「うん。ごめんな」
「何がだよ」
「俺、それでもが好きみたいだ」
「一々そう言うこと言うなよ」
紙がいっぱいになって、一度筆を置く。
「それはお前だけのもんなんだから、私に言っても何にもならない」
「うん」
三郎は紙を取りかえ、また筆を持った。墨を付け過ぎて文字が滲む。
勘右衛門は静かに座っていた。
58話
一向に前を見ようとしないを三郎は余裕のある笑みで見ている。
朝、放課後に会おうとに言われてから三郎は彼の勘の良さで何があるか悟っていた。
強く着物を握り、今にも泣き出しそうなに申し訳ない気持ちを抱く。
話は自分から切り出したくなかった。
の口が小さく開いたり閉まったりを繰り返す。
体が硬直して声が出ない。
緊張ではなく恐怖。今から人を傷つける恐怖。
目を一度硬く閉じた。とても三郎を見ることなどできそうにない。
震えそうになる体を抑え込んで、はやっと声を出した。
「別れたいです」
か細い声は何かほかに音があればかき消されていたであろう。
しかし話すためにが指定した所は学園内で図書館の次に静かな場所であった。
三郎は息を吐き出す。諦めたかのようである。
は三郎の反応をおずおずと俯けた顔にある二つの目で窺う。
三郎の穏やかな様子は更にの体を固まらせた。
怯えた様子のに三郎は笑う。
「そうか。まあ、そんな気がしなかったでもない」
明るいと言えないが、落ち込んだ様子のない声色は三郎が予感していたことを教える。
しかし三郎の声だ。表層が正しいとは限らない。
「最初から、想っていたのは私の方だ。こういう結果になることも考えていたよ」
苦笑する三郎。
刃が薄く、心を傷つける。そう、最初から今まで、は三郎を恋慕の対象として見られなかった。
「わざわざ悪いな。まあ、は律儀だからこうなるか」
三郎は軽い調子で言った。別れ話をしているとは思えない。
律儀。はその単語に引っ掛かりを覚えた。
別れ話をするのは律儀だろうか。それとも三郎は避けるようにして、自然消滅が普通だと思っているのだろうか。
その疑問もすぐ、どこか居心地の悪そうに頬を掻く三郎の発言で解かれる。
「勘右衛門と付き合うんだろ?」
「・・・え?」
は予想外の言葉に目を見開く。そしてその反応に三郎が眉間に皺を寄せた。
「勘右衛門と付き合うから、返事をする前に別れに来たんだろ?」
見当違いな考え。
それに絶望したようには首を振った。
「そんなわけ、ないでしょ」
の否定に三郎の眉間の皺が濃くなる。
「勘右衛門に告白された。だけど私と付き合っているから、先に私と別れて勘右衛門に返事をし直すんじゃないのか?」
三郎は早口になっている。
責め立てるような口調だが、それよりもはその考えが酷く悔しかった。
「そんなわけないでしょ!!そんな、酷いこと出来るわけない!」
涙声のそれに、三郎は一瞬いつもの冷静さを取り戻しそうになったが、湧きあがる感情に流される。
「じゃあ、何で別れる必要がある?私は・・・」
物理的な怒りを抑えるように三郎は前髪を掴んだ。
「私は、勘右衛門と付き合うと思って・・・」
悔しそうで悲しそうなその表情が、激怒したに罪悪感を芽生えさせ、落ち着かせる。
「なら、別れる必要なんてないじゃないか」
は首を小さく振る。
「ごめん、私酷いこといっぱいしてるね。でも、もっと酷いことしてる」
握りしめた拳を胸に中心に押し当てる。
「心の底で、自分も鉢屋君も裏切ってる」
痛む胸。確かに自分の胸は痛い。自分の痛みは分かるが、相手の痛みは分からない。
いつも冷静な三郎が声を荒げることはどれほど辛いことであろう。それを考えると益々胸は痛む。
「心の底で?何言ってんの?」
まるで阿呆に言う様に吐き捨てたそれだが、顔は怒りと焦燥に満ちている。
その表情には怯えたが、握った拳を確かめて言葉を紡ぐ。
「鉢屋君といるのは楽しい。でも、でも向き合えない」
「それが裏切り?なら、裏切ってればいい」
「そんなこと、そんな、できるはずない」
小さな拒否の声に三郎は軽く嘲笑した。
「・・・心の底で、だろ?」
荒げていた声が小さくなる。に確かめるように。
その変わりように一瞬は三郎を見たが、肯定するように目を逸らした。
「なら、分かんねぇんだよ」
抑え込むように喉を震わせ、三郎は言った。
その小さくなった声ももちろんに届く。は横に大きく頭を振った。
「分かんないはずない。鉢屋君が、気が付かないはずない」
分からないはずがない。誰よりも人のことに聡い三郎。
はあの時、二人で出掛けた時に気が付いた。
それでも三郎が何も言わないのなら、そのまま自分の感覚も押し込もうと思っていた。三郎の良さは知っているから、好きになれると思っていた。
しかしその考えは勘右衛門の一言で打ち砕かれる。
揺らされた心から飛び出た考えと向き合った時、自分の保身の醜さに気が付いた。
嘘に気が付いている人に嘘を吐き続けることは保身でしかなかった。
三郎の拳が強く握られる。カチリと一瞬歯が鳴って、大きく口は開かれた。
「言わなきゃわかんねぇんだよ!分からない振りだって、出来たんだよ」
また大きくなった声にの目が見開かれた。体が退く。
語尾になるにつれ、小さくなる三郎の声。俯く顔。
その声にの罪悪感がの体に収まりきらないほどに増す。
一時の空白。
言うのは辛い。でもここで言わなければ、もう二度と勇気を出して言えることはないだろう。
はもう一度覚悟を決めて、別れを告げようとした。
しかし、それは悟った三郎に打ち消される。
「別れない」
の眉間に不安の皺が寄る。
「私は絶対に別れないからな!!」
俯いたまま発せられたにも関わらず、その声はとても大きかった。
繋ぎとめようとする必死さ。
されど残念なことに、三郎は人間関係についても聡かった。
そして知っていた。一度壊れた関係が修復することは極めて困難なことを。修復するためには歩み寄りが必要なことを。それには勇気がいることを。
もうこれ以上の言葉を聞きたくないとばかりに三郎は背を向け、早足で去る。
残されたの目から三郎の前では堪えていた涙が頬を伝う。
言うことは言ったはずなのに、何一つとして思い通りにはならなかった。
自分の思考の甘さに絶望する。
状況は、表面的には変わっていないのだろう。しかし内面的には明らかに悪化した。
もっと上手く言えば、三郎をあれほど傷つけることはなかったのだろうか。
募るのは後悔ばかり。
時間を戻して。多くの人間が願う思い。
それをあざ笑うかのように時は過ぎ行く。
56話
時が一回りし、彼らは6年に上がる。
歪になった関係は敬遠することでしかやり過ごせなかった。
そしてまた時は立ち、桜の蕾が咲く頃、彼らは学園を卒業した。
涙を惜しまず流し、また生きて会おうと仲間と誓い合った。
初めて庇護をなくした彼らの世界は目まぐるしく動き、気が付けば秋を迎えていた。
、16歳。
彼女はくの一に向かないことを自覚し、町に出て奉公し始めた。
学園で身に付けた作法と学があるため店からそれなりに重宝されるものの、女の身は理不尽な因縁を引きつける。
それでも何とか暮らしていた。
休みの日、一人で住み始めた長屋の前の落ち葉を掃く。
すぐに冬を迎えるだろう。空には薄い雲が張っている。
落ち葉を片付け終え、部屋に戻る。一昨日、隣の住人が引っ越してから家の周りは少し静かになった。
かまどの中を覗き、炭の量を確認する。まだ足りそうだ。
冬に備えて、衣類も防寒の物を取り出しやすい所に移動させなければならない。
今日一日を身の回りの整理に使うつもりでいた。
そんな彼女の予定を狂わせる人物が現れるのは正午を過ぎてからのこと。
戸が叩かれる音がする。
忍者でないが女一人身である。声のかからない戸に慎重に近づく。
耳をそばだてると相手が一人であることを確かめ、小さく戸を開けた。
目の前には知った顔があった。
開かれた隙間から相手と目が会い、相手は嬉しそうに目を細めた。
「よお」
ゆっくりと人の全身が見えるほど戸を開けた。
「久しぶり、鉢屋君」
相手に合わせて満面の笑みを浮かべたいところだが、引きつってしまった。
「ああ、久しぶりだな。元気だったか」
「うん、元気よ。鉢屋君も元気そうで何より」
は鉢屋が城仕えに決まったことを耳に挟んでいた。
危ない世界に身を投じた相手の五体満足な姿に安心する。
「今、いいか?」
そう聞かれて部屋を振り返る。
「掃除していたから散らかっているけど、良ければ中に。寒かったでしょう」
「悪いな」
部屋に招くと、三郎に座ることを促した。
は湯を沸かす。
突然の訪問者に、はどう対応していいか迷っていた。
あの日から、三郎と話すことはなかった。
茶葉を入れた急須にお湯を注ぎ、蓋をして湯飲みと一緒に盆で三郎の前まで運んだ。
「は今、何してるんだ?」
「色々なところにお手伝いに行っているの。手が足りない所で女中したり、一時的にお店のお手伝い頼まれたり。知り合いが出来て、紹介してもらえるの」
湯飲みを返し、急須を回して茶を入れる。
「いつかはちゃんと特定の場所に勤めたいと思ってるんだけど」
一滴まで入れ終わり、茶を三郎に進める。
三郎も一言断って、口を付けた。
「鉢屋君は、お城仕えでしょ。大変だね」
「まあ、まだ一年も経たないからな。慣れたら、少しは楽になる」
お互いに強張った笑みを浮かべる。会話が上手く流れない。
三郎は湯飲みを置いて「あ〜」と気の抜けた声を出した。
「今日は、に会いに来たのは」
胡坐をかいていた足を正座に直し、床に両手を付いて三郎は頭を下げた。
「申し訳なかった」
「な」
深々と下げられた頭と、他人行儀な謝罪の言葉には慌てる。
三郎の方に手を伸ばし、頭を上げてほしいと手振りするが三郎には見えていない。
やっと声を出す方法を思い出す。
「何で謝ってるの!?頭を上げて!鉢屋君が謝ることないよ!?」
パタパタとうろたえるの行動に三郎はの言うとおり頭を上げた。
「あの時、別れるって言えなくて本当に悪かった」
顔を上げた三郎は真っすぐにを見る。
それにも動きを止めて、大人しく座った。
「ああいう場合、繋ぎとめても良い方に転換することなんてないって分かってるのに、認めたくなくてな。いっぱいいっぱいでの気持ちなんて考える余裕なんてなかった」
一年以上過ぎてから語られる胸の内。
時が過ぎたからからこそ言葉にできる。
「鉢屋君が謝ることなんてないよ。原因は私にあるんだから」
昔のことだけれど、解決していなかったこと。
解決していなかったけれど、今更なこと。
今なら、全て出せる気がした。
「私も、あの時自分のことしか考えられなくて、先のこと考えてなかった」
きゅっと拳を握る。
あの時とそれは同じだが、目はしっかり三郎を見ている。
「そもそも告白を受ける時、安易だった」
『私は失恋したから他の人の恋が成就してもいいんじゃないかなって思ったから』
なんて高慢な考えだったのだろう。
本当にその人のことを考えるのなら、そんな答えを出すべきではなかったのだ。
随分前から選択を誤っていたのだと思うと、自分が救いようのない愚か者に思えてくる。
「それは、謝らないでくれよ」
三郎がの謝罪に苦笑した。
の目がキョトンとする。
「私は、に良いか、と聞かれて良いと言ったんだ。それにそれを謝られたら付き合っていた間が全て駄目になってしまう」
三郎が優しく笑う。
「私は楽しかったんだ。と付き合っている間、確かに辛いこともあったが、楽しかったし幸せだった。嬉しかった。何物にも代えることはできない」
目で、は?と問いかける。
は頷いた。
「私も、楽しかったよ。鉢屋君と話したり、出かけたり、冗談言い合ったり。すごく楽しかった。ありがとう」
それに三郎は満足そうに頷く。
「じゃあ、」
静まる空間。しかし、三郎が来る前の様な寂しい静けさではない。空気の一片に賑やかさが混じる。
「別れようか」
一瞬固まるだが、すぐに悪戯する子どもを見た時のような笑みになる。
「うん、そうしよう」
もう一度急須に湯を入れ戻ると、三郎がニヤニヤとしていた。
「何?」
「いや、ちょっと思い出してな」
「何を?」
普通の返しなのに、三郎は一段と笑みを濃くする。
「、私が何でを好きになったのか、気にならないか?」
質問したはずなのに質問で返された。
しかしそんなことを気にする余裕なく、の顔は赤く染まった。
三郎から目を逸らす。
「まあ、聞きたいかって言われたら興味がないわけでもないんだけど、いやでも恥ずかしい」
ぶつぶつと言うの反応に三郎は噴き出した。
「反応が初だなぁ、面白いよ、は」
そう言われてしまえば返しようが無くなる。
「まあ、座れ。話させてくれ、せっかくだ」
促されてしぶしぶと言った感じでは座り、先ほどと同じように茶を差し出した。
「はいつ私に好かれたと思う?」
「そんなの分かるわけないよ」
「少し考えてみろよ」
「え〜」
学園時代を思い返す。懐かしいが、三郎との関わり合いなど朝の挨拶くらいだ。
「朝の、あいさつ運動中?」
「それはを好きになってからだよ」
「え〜」
それ以前はほとんど話したこともなかった。
思い浮かばない。
「降参?」
「・・・降参です」
嬉しそうに聞く三郎には悔しそうに答えた。
「正解は、が勘右衛門を教室から覗き見しているとき」
場面は鮮明に思い出され、昔のことといえどに恥という感覚を想起させるには十分だった。
「な、な!見てたの!?」
「見てた。ずっと見てた。気付かなかったろ?」
項垂れる。穴があれば入りたい心境。
「は勘右衛門だけを見てた。だから私には気付かなかったんだよ」
笑って茶を口に含む。
恥ずかしさで動けないを見つめ笑う。
「でも、それが良いなって思ったんだ」
からかうような色が消えて、優しさを含んだそれには目を三郎に向けた。
「真っすぐなのが良いなって思ったんだよ。私を見てほしいってのもあっただろうけど、たぶんみたいになってみたかったんだ」
初めて知らされる真実に、驚かされる。
当時、学園内ではもう諦めればいいのにという目がに向けられた。
そんな状態であったのに、その一途さを知らないところで認められていた。
そのことに言いようもない温かさが胸を包む。
「格好良く、私を振ったことを後悔しろよ、と言ってやりたいところだけど」
湯飲みの中を全部飲みほして三郎はニッと笑った。
「やっぱ後悔はしてほしくないな」
優しい言葉にの涙腺が緩む。
「幸せになれよ」
彼は優しかった。常に優しかった。
人の気持ちが分かる人だ。痛みが分かる人だ。
だからこそ優しい人だ。
いつも傷つかないように、大切に扱ってくれる。こんな人が近くにいたなんて、なんて幸せ者だったのだろう。
以前流した涙とは違う。温かい涙が頬を伝った。
「泣いちゃってごめん」
恥ずかしそうに赤くなった目を抑えては言う。
出入り口に立ち、三郎はすでに外側にいる。外は少し赤みを帯びている。
「いいさ。そういう時もある」
軽く言われ、は自分の情けなさを笑った。
カラスの鳴く声がする。
「しかしこの長屋は寂しいな。夕方なのにこの人気のなさは」
「一昨日、お隣さんが引っ越しちゃって。子どもが5人もいなくなっちゃったから余計ね」
キョロキョロと三郎は周りを見渡す。
「隣いないのか。気をつけろよ。女の一人身は危ない」
「分かってる。まあ、私も武術を多少嗜んでいたわけだし、町人の男くらいになら負けないよ」
「過信は身を滅ぼすぞ」
呆れたように言うそれに苦笑するしかない。
「女一人に良く長屋貸してくれたな」
「ああ、そこの大きなお屋敷分かる?そこが大家さん」
「へえ、立派な」
遠くからも分かるほどしっかりした屋敷に三郎が感嘆の声を上げる。
「何度かお仕事してたら気に入って頂けて、安く貸して下さっているの。だからお手伝いの賃金は多少値引きしてる」
「あんなお屋敷の人と知り合いならいいな。信用できる人か?」
「う〜ん、今のところ良い人よ」
まだ会って数カ月。人間の中身なんてそうそう分からない。
目の前に人間が良い例だ。
「じゃあな、。もしかしたらもう会えないかもしれないが」
夕日が逆光になり、三郎の顔が翳っているようにいるように見える。
は急に寒くなった気がした。
戦乱の世。忍びの三郎だけではない。一般人になったもいつ戦禍に巻き込まれるかわからない。
「うん、そうだね。でも、またねって言わせてよ」
別れは明るい方が良い。
三郎も自分の湿った言葉を吹き飛ばすように彼らしく笑う。
「またな」
「またね」
会えるかどうかわからない。
でも会えることを願って見えなくなるまでその背に手を振った。
木枯しが吹く季節。
仕事を終えたは身を縮めるようにして長屋へ帰ってきた。
戸に手を掛ける前に同じ長屋に住む奥さんに引き止められる。
寒い中長話はきついが、貴重な情報源だった。
「そういえば、ちゃんのお隣、人が入るらしいわよ」
「へぇ、そうなんですか。どんな人でしょうね」
「どうかしらねぇ、変な人じゃないと良いんだけど」
「物騒な世の中ですからね」
世間話を繰り返し、奥さんが飽きてからやっとは自分の部屋に入ることができた。
冬が来て、狭い一室に陽が入りにくくなり、一人でいることが尚のこと寂しく感じられるようになった。
寒い寒いと庵に火を入れる。
部屋着の綿入れを着こんで丸まった。
それから数日後、の家の戸が叩かれる。
夕飯の支度をしていたは手を拭い、そっと外を窺った。
「すみません、隣に越してきた者ですが」
その声に、は戸を開けた。
似た声の人かもしれない、と思ったが戸の先にいた人物は思い描いた人だった。
瞠目するに相手は愉快そうに笑った。
「久しぶり!」
「え、あ、ええ、久しぶり」
やっと出した返答。相手は嬉しそうに目を細める。
「勘右衛門、どうしてここに?」
「どうしてって、隣に越してきたんだよ」
当然のように言う勘右衛門。確かに彼は最初そう言った。
「隣に・・・。すごい偶然ね」
「いや、偶然じゃなくて」
驚いて頭の回転が鈍いの目の前で手を横に振る。
「三郎に会ったんだろ?」
「え、うん。秋ごろ」
「その時に手付金払っておいてくれたんだって」
さらっと言われるそれにまた目を見開く。
頭の情報が上手く整理されない。
「俺、それ聞いたときほど三郎に感謝したことはなかったね」
おかしそうに笑う勘右衛門だが、目の前の人間にそれほど余裕はなかった。
「本当はもっと早く来たかったんだけどさ、の居場所が分からなくて」
困った、と頬を掻く。
特に誰にも口止めなどしていなかったのに、居場所が分からないとはどういうことか。
「の同室のくの一。あの子が情報規制してたらしくてさ、俺には教えるなって。直接会ったんだけど、鋭く睨みつけられて怖かったよ」
「え?あいつが?」
学生時代の友人を思い出す。
何故そんなことをしたのか分からない。
「を泣かせたから駄目らしい。言い返せなかった」
「は?」
泣かせた。そう言われて、自分の失恋した当時を思い返す。
あれだけ泣けば確かに相手の好感度は下がるだろう。もしかしたら友人は勘右衛門のことが好きでなかったのかもしれない。
いつも不器用な優しさが友人の特徴だった。
「まあ、三郎から教えてもらえたんだけどね」
悪戯っ子のようにニッと笑うと、すぐに勘右衛門は顔を引き締めた。
「俺、が好きだ」
前と同じ台詞。
「好きだ、今でも。ずっと忘れられなかった。時間が立てば薄れるなんて嘘だ。会えなくて辛くなるばかりだ」
頬に少し朱が入る。
は勘右衛門を見て、目を逸らすことができない。
「こうして会えた今も苦しい。胸が張り裂けそうな思いってこういうことを言うのかな。嬉しいのに苦しくて、自分じゃどうしようもないよ」
苦笑する勘右衛門。
言葉の一つ一つが真摯な声で伝えられるため、冗談などと思えない。
「、好きだ。でも、が俺のことを好きでもおかしくないなと思う」
反射的には首を振りそうになるが、抑える。
「それでもいい。もしに好きな人が出来ていてもそれでもいい」
勘右衛門の唇が弧を描く。
「これからは毎朝、俺がにおはようって言うよ。俺のこと好きじゃなくても良い。俺がに好きになってもらう様に頑張るから」
勘右衛門は視線を下にやると、の指先を掴んで持ち上げた。
は一瞬驚いたが、引っこめようとしなかった。
「でも、出来れば笑ってほしいかな、なんて」
はそこで自分の目の縁に溜まる涙に気が付いた。
目の下を抑えて止めようとする。
「、好きだよ」
短い時間の間に何度もささやかれる言葉。
止めようとする涙が止まらない。
「の笑顔が好き、笑う声が好き、強いところも弱いところも、優しいところも好きだ。でも、知らないところもたくさんあると思うんだ。だからそれも知りたい」
一粒二粒と涙が零れ落ち、勘右衛門はそれを愛おしそうに眺める。
「私も」
涙でうるみ、頬も涙で濡れている。
その顔を上げては言う。
「私も、勘右衛門が好き」
真っすぐな目で言われ、勘右衛門が微かに目を開くがすぐにそれは嬉しそうに笑う。
そしても満面の笑みを、幸せそうに描いた。