弟2
朝、が食堂に行くと兵助が一人で朝食をとっていた。が兵助の机に近づく。
「おはよう、兄ちゃん」
「あ?ああ、か」
「一人?」
「ああ」
兵助の盆を見てみると、やはり豆腐定食だ。少し笑ってしまう。
「何だ?」
「いや、何でも。一緒に食べていい?」
「いいよ」
は一度離れて、おばちゃんから盆を受け取るとまた兵助のもとに戻り隣に座った。
両手を合わせる。
「いただきます」
兵助は黙々と食べる。ある皿の前で箸を止めた。
「、確か昆布の佃煮好きだったよな」
を見ずに尋ねる。
「ん?うん」
素直に頷くに兵助は先ほどの皿を寄せた。
「やるよ」
「え、あ、ありがとう」
は最初戸惑ったものの、直ぐに笑顔で応えた。そして思いついた。
「あ、じゃあ俺の豆腐」
「いや、豆腐はお前が食べろ。健康に良いからな」
の言葉を遮って兵助は答えた。
「あ、そう」
少し気落ちして、は箸を握り直した。
それでもすぐになんとも無かったように、色んな皿に箸をつけていった。
「・・・、次の休みどうするんだ」
兵助が、軽く手を休めた。簡単な質問であるはずなのに、彼から出た声は少し重たい。
「家に帰るよ。近くで短期のバイトするんだ」
反対には少し浮かれた調子だ。佃煮に箸をつける。好物の味に自然と頬が緩む。
「あ、ねえ、今度勉強教えてもらえないかな。分からないところが出てきて」
「ああ、いつでもいいぞ」
にしてみれば、ただの思いつきに過ぎなかった。しかし兵助には急な話の転換が、故意に別の方向へ逸らしているように思えた。
適当な受け答えの会話が続く。
兵助は食事を終わらせ、に断ってから一人席を立った。
「・・・で、三ちゃんは兄ちゃんに許可もらって俺に聞きに来たわけね」
用具倉庫の裏の草の上で昼寝をしていたところを三郎が襲撃した。
襲撃にふさわしく、寝ている相手にクナイを投げつけて。といっても、確実に当たらない場所に投げたが、は飛び起きた。
軽く汗もかいていた。
三郎が話を切り出すと、あっさりと頷いた。
「といっても、本当に大した話でもないんだけど。もったいつけすぎたかなぁ」
「いいから話してくれよ。別に構わないんだろ?」
「うん」
用具倉庫を背に、二人は並んで座った。の右腕が三郎の左腕に軽く当たった。ふふっとが笑う。
「話すのはうちの家族構成とかでいいの?」
「それも聞きたいけど、お前がバイトしてる理由とかも」
はフンフンと頷いた。考えるように上を向いて、納得したのか三郎に顔を向き合わせた。
「あんまり上手く話せないけど勘弁してね」
「ああ」
は足を腕で抱えて、話し始めた。
「まず、父親はある地域じゃそれなりに権力者なんだ。ほんと小さい範囲だけど。それなりに金持ち。
もちろん奥さんもそれなりの地位の娘さん。で、子どもが兄ちゃん」
予想していた答えだ。
「俺は妾腹。母さんは村娘。うっかり散歩してた父さんに見初められちゃって」
が一際冷たい眼をした。
「当然婚姻なんてできない。でも子どもができちゃって他に嫁ぐこともできなくなった」
何か違和感がある。母親のことをちゃんと「母さん」と呼ぶのに、自分のことは「子ども」だと冷めた言い方をする。
別に今のであれば「俺」でいいはずだ。
「本家に迎えることもできない。だから村に近い別荘を母さんに分け与えられたんだ。金持ちの別荘にしちゃちっちゃいものだよ。
あ、言うのは家族構成だけだったよね。ごめんごめん」
「いや、話してくれ」
「うん。今実家にいるのは母さんと女中二人だけだよ」
軽くそう言い放つ。三郎にはそれがわざとらしすぎた。
「で、俺がバイトしてる理由はお金がないから。父さんは兄ちゃんのお母さんと俺の母さんだけじゃなくって結構奥さんいるんだ。
ま、それでまた地位が上がるわけですが。地位のない母さんはその中でも末端。
だから父さんが出すのは家の維持費と女中の給料と少しの食糧費。子どもの学費なんてとても出せない。
でも、俺勉強したいから自分で学費稼いで入学したんだ。別に珍しいことじゃないでしょ?」
確かにそういう奴は、多くないけどいる。
「取り合えず、質問には答えたよ」
あっさり終わったの話。でもまだ分からないことはある。
「はなんで苗字が変わったんだ」
ああ、と納得しては少し笑った。
「兄ちゃんが父さんに掛け合ったんだ。同じ兄弟なのに、違う苗字はおかしいってね。
俺としては苗字なんてどうでもよかったんだけど、兄ちゃんが必死になってくれたから。嬉しかったんだ、俺のために頑張ってくれて」
「嬉しいのか?苗字が変わるのは嫌だと思わなかったか?」
がほほ笑む。
「嬉しいよ。兄ちゃんは、俺が兄ちゃんと同じであることを認めてくれたんだから」
同じであることを認めてくれた?
「家族だと認めたってことか?」
「違う。難しいな。俺は兄ちゃんのことがすっごく好きなんだ」
「ああ、見てれば分かる」
三郎は拳を握って言うをつい呆れた目で見てしまった。
「本家の人間なんてうちのこと同じ空間にいると思ってないんだ。知っていても知らぬふり、目に入らないんだ。
でも兄ちゃんは俺を見てくれて俺のために必死になってくれて、それだけでも嬉しいのに、兄ちゃんは俺に「兄ちゃん」って呼んでいいって言ってくれたんだ」
が照れたように笑う。兵助の話をするときは本当にうれしそうに笑う。
「俺、本当は兄ちゃんのこと『兵助様』って呼ばなきゃいけないんだけど」
同じ兄弟で、この差。身分社会の縮小図だ。
どうしてもの頭をなでたくなった。その衝動にしたがって撫でる。
「えっと、三ちゃん。疑問は解けた?」
「いや、実はまだあってだな」
「うん」
の頭から手をのけた。
「今、が話してて疑問だったんだけど、なんでお前「子ども」って言うんだ?自分のことだろ」
は一度手で口をつまんだあと、頬を掻いて頭を壁につけた。
「まだ小さいときなんだけどさ、父さんがうちを訪ねてきたんだ。
本来俺はあんまり呼ばれないんだけど、その時は父さんの気分で俺は呼ばれたんだ。
あんまりあえない父さんに会えるってちょっと俺も嬉しかったんだけど、座敷に入った俺に父さん何て言ったと思う?」
それは兵助のことを語る時とは全くの反対の笑みだった。
「お前、名前何だったかな?だよ。ひどい話でしょ。自分でつけた名前じゃないの。喜んで馳せ参じた幼き俺は傷心だよ。
それ以来父さんの中じゃ俺は『子ども』って認識はあっても『俺』というものにはほとほと興味がないってことを理解したわけ。
まあ、母さんは俺のこと愛してくれてるから十分なわけだけど。ちょっと微妙な心境にならない?」
微妙な心境というか、重すぎる。親に名前を忘れられるなんて三郎には考えがつかない。
「じゃ三ちゃん、まだ質問はある?」
「ああ、そうだな」
三郎は頭を掻いた。言っていいのか迷う。しかしここまで聞いておいて今さらな気がする。
三郎もと同じように膝を抱えた。
「なんでこんな話でも軽い口調で話すんだ」
「え〜、だってさ、暗い話を暗くすると嫌じゃない?」
またあっけらかんと言う。三郎は眉間にしわを寄せた。
「私が聞いてるのは、今の話し方だけじゃない。は普段から無理に明るくふるまっている気がする」
「・・・」
「?」
は膝の上で腕を組み、三郎の方を見た形で頬を乗せる。
「・・・泣くんだよ」
初めて、が悲痛な声を出した。
「母さんが時々泣くんだ。勿論、俺の前じゃなくて一人の時に。『寂しい』って。
父さんなんて、ほんと長い期間来ないんだ。一年間に一度も来ない年もあった
。母さんの親族も屋敷を訪ねることなんで簡単にできない。女中は仕事があって、母さんの相手なんてできない。
俺は、学園に入ったから長期休暇しか会えない。休みの間もバイトに明け暮れる。
親不孝だよね。寂しがってる母さんのそばにいられないなんて」
声は今にも泣きそうなのに、顔だけはまだ笑っている。
「母さん、寂しいのに俺が暗かったら心配するじゃん。だからさ普段から明るくしてようって決めたんだ。もうほとんど癖なんだけど」
まだ十二歳なんだよな、三郎はふとそんなことを思っての肩を左手で抱いた。
「お前さ、良い子だよ。俺だったら親のことなんて考えないね、絶対。自分のことしか考えない。もしかしたら家出もしたかも」
「嘘つきだなぁ三ちゃんは。三ちゃんは絶対、親に気を使ってるよ」
「馬鹿、気なんか使ってたら悪戯なんてできないんだぞ」
ニヤリと笑って三郎は顔をに変えた。
「三ちゃんらしいな。さあ、残りの質問は?」
「あ。ああ。もうない」
「そう、じゃあ俺から質問いい?」
「ああ」
三郎の答えを聞くと、急にの空気が静かになった。
「兄ちゃんが忍者になる理由、知ってる?」
「・・・いや」
そういう話は聞いたことがなかった。だがてっきりは知っているものだと思っていた。
「兄ちゃんはもしかしたら俺に負い目を感じているんじゃないかって、それだけが気がかりなんだ」
負い目、同じ血が流れるのに片方は周りに大切に育てられ、片方は親にさえ名前を忘れられるほどぞんざいな扱いを受ける。可能性はある。
「兄ちゃんは、俺になんでもくれようとするんだ。町に行ったら必ずお土産を買ってきてくれる。
こないだの筆だってそうだよ。貸してくれるだけでよかったんだ。でも兄ちゃんは俺が必要としたものを全部くれるんだ」
物をもらえることは必ずしも嬉しいことではない。
場合によっては相手の矜持も傷つけることもある。は傷ついたというよりも、少し寂しさを感じていた。
「兄ちゃんは交換であっても、俺から物を受け取ろうとしないんだ。おかずの交換だって受け付けないんだよ。
俺は、同等なんて生意気言うつもりはないけど、気兼ねしないでいい兄弟になりたいんだ」
は誰かに言いたかったことを吐きだした。本来ならば、兵助に話すべき内容だ。
しかしが気兼ねしていると感じている限り、それをの口から兵助に伝えることはできない。
すっきりしたように息を吐き、は立ち上がる。
「何となく、迷子が出てる気がするから行くね」
がトテトテと歩いていく。落ち込んではいない。三郎はの姿が見えなくなっても座ったままでいた。
耳を澄ますと「さもーん!!三之助―!!」という富松作兵衛声が聞こえてきた。
勘がいいものだ。
話を聞きに、雷蔵と八左衛門が兵助の部屋を訪れた。しかし部屋にいない。
「焔硝蔵かな」
「火薬委員会今日あってるか?」
二人とも分からないので、焔硝蔵へ向かう。蔵にはキチンと鍵がかけられていた。
「違うみたいだね」
「課題しに図書館とか?」
「う〜ん、行ってみようか」
図書館に向かい、図書館の主を怒らせないように中をのぞく。やはりいない。
「豆腐食いに食堂?」
「さすがに夕飯には早いよ」
二人で唸る。残りが思いつかない。
「の部屋にでも行ってみるか?いるかも」
「うん、一応ね」
今、は三郎と一緒にいるはずだ。がいない部屋に兵助がいるとは思えなかった。
しかし他に思いつかない。二人は走っての部屋へ向かう。
当然のごとく兵助はいなかった。
「どこだよ、兵助」
「う〜ん、あ、鍛錬場は?あと道場とか」
「一応行ってみるか」
少し面倒臭くなって、足取りが重くなる。
兵助の部屋で待てば簡単な話なのだが、二人は躍起になって兵助の跡をたどろうとする。
「あ、あれ兵助だ」
「え?」
向こうもこちらに気づいたらしい。軽く手を上げている。少しずつこちらに近づいてくる。
「兵助、どこ居たんだよ、捜したんだぞ」
「あ?なんか用事?」
「と、取り合えず部屋行かないか。雷蔵、部屋いいか?」
「え、ああ、うん」
相手だと、気を引き締めれば聞くことができたのに、どうしてか兵助相手だと気が引けてしまう。
八左衛門と雷蔵の背中に重たい気が圧し掛かる。その後ろを兵助がついてきていた。
「なぁ、ハチ」
兵助が八左衛門の背中に語りかけた。
「なんだ?」
「俺って分かりにくいかな」
「はぁ?」
二人が振りかえる。
「表情とか行動にあんまり出てないかな」
「兵助はあんまり表情が変わらない方であるとは思うよ」
八左衛門の代わりに雷蔵が答える。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
兵助の足が少しだけ遅くなる。
「三郎に、俺は人との繋がりを大事にしていないって言われたんだ。
俺はしてるつもりだったんだけど、全然伝わっていなかったみたいだ」
三郎の率直さに雷蔵が頭を抱えた。
何もこんな慎重に事を運んでいることがある時に、そんな話をしなくてもいいじゃないか。
八左衛門は首を傾けた。
「何言ってんだ、三郎は」
八左衛門は腰に手をあてた。堂々と胸を張っている。
「お前は大事にしてくれてるよ。俺たちが周りにいるのが証拠じゃないか。友情を蔑ろにする奴と友達でいるほど、俺は器がでかくない」
「いや、ハチは器でかいよ」
雷蔵が否定する。「一度動物を飼ったら最後まで面倒みるのが人として当然だろう!!」と人に諭す彼だ。器が狭いはずがない。
「それには、兵助のこと大好きだろう。お前が兄弟の関係を大切にしてる証拠だよ。兄弟って近い分、態度があからさまに出るんだぜ」
はっきりと言い切る八左衛門。しかし兵助は哀しそうに眉を下げた。
「・・・そうだな」
兵助から出たのは肯定の言葉だった。
「兵助、言いたいことあるなら言えよ。気になるだろ」
兵助の曖昧な感じが八左衛門は気に入らなかった。いや、気になった。
「・・・ハチが言ったのは一般的な兄弟の話。うちとは違う」
とても小さく低い声で兵助がそう言った。これには八左衛門も困った。
兵助を泣かせたいわけでも、困らせたいわけでも、悲しませたいわけでもない。雷蔵も同じく戸惑う。
「あ、あのね、兵助」
雷蔵が背筋を伸ばして言う。
「兵助に、兵助とのことが聞きたいんだ」
「ああ、用事ってそれか」
兵助が頷く。先ほどの哀しさは消えて、いつものように無表情で言った。
「取り合えず、部屋行こう。聞きたいこと全部答える」
雷蔵と八左衛門は一度見合わせて、部屋へ向かった。
三人で部屋に入り、適当に座る。自然と二人が兵助に向き合う形になった。
誰も話を切り出さない。八左衛門と雷蔵は、戸惑っている。それを察したように兵助は口を開いた。
「二人が聞きたいのは、たぶん俺の家庭環境なのかな」
たぶんそうなのだろう。二人は頷いた。
「俺とは腹違いなんだ。うちの親父はロクデナシでな、妻が何人でもいる。俺の母さんもの母さんもその一人」
兵助は父親のことが好きではなさそうだ。眉間に薄い皺をよせて話す。
「俺の母さんは親父の正妻。 母さんから生まれたのは俺だけだから、久々知本家嫡子は俺だけ。
は本家とは別の場所で暮らしてる。と初めて話したのはが学園に入学してから。
それまでは新年の挨拶で二三度顔を見たことがあるだけで、一言も話したことがなかった」
兵助は一度ため息をついた。
「というか、が入学する直前まで知らなかったんだ。
それまで俺が知っていた親父の子どもは、跡取り候補ばかりだった。俺が跡を継げなくなった場合の、な」
兵助が腕を組む。今までの話の中で八左衛門と雷蔵が自分に置き換えて聞けることなどなかった。環境が違いすぎる。
「を見た瞬間に兄弟だと考えなかった俺って鈍感だよな。顔はそっくりなのに」
自嘲するように兵助が笑う。これについてはうっかり二人も頷きそうになった。それほど二人は似ているのだ。
「それで、あと二人が聞きたいのは」
兵助との血のつながりについては説明が終わった。八左衛門が手を上げそうになりながら質問する。
「あ、の苗字が変わった理由とか」
「ああ、それな」
兵助が苦笑する。
「それはちょっと俺の勘違いというか、傲慢さから起きたことだな」
「勘違い?」
「同じ父親を持つのにが親父の苗字を名乗れないのはひどく可哀そうなことなのだと何故かそう思っていたんだ。
たぶん俺の知っている親父の子どもは皆久々知を名乗っていたからだろうな。
に『俺から親父に言ってやる』って勝手に約束取り付けて、そのまま実行したんだ。
親父は構わないって了承した。ただし、に継承権はないことを念押してな。
にしてみればいい迷惑だよ。好きでもない親父の苗字に変えられて、今まで慣れ親しんだ苗字を手放させられて。すごい考えなしだよ」
口を出し辛い。重い話だと分かっていたが、ここまで自分たちが何も話せないとは思わなかった。兵助の顔が段々見られなくなってくる。
「その、は何も言わなかったの?苗字が変わることについて」
「ああ、言わなかった。なんか、ありがとうとだけ言われたんだけど、たぶん俺を気遣って喜んだふりをしてくれたんだ」
「じゃ、じゃあなんで兵助は忍者目指してるんだ」
うろたえながら八左衛門が言った。兵助は上を見て下を見て頬を掻く。何か迷っている。それから一旦足を組変えた。
「本当は俺、四年ぐらいで学園を辞める予定だったんだ。入学した理由は学問と体術を学ぶためだったから、基礎ができればいる必要がなかった。
というか、別に学園に勉強しにくる必要も無かった。だけどを知って、このままじゃ自分はただ大人になるだけだと思ったんだ。
はいつも短い時間でも働いて学費を稼いでる。それが俺にとってはとてつもないことに思えた。
同じ親の血が入っているはずなのに、あいつは頑張ってる。俺は将来家督を継ぐからと自分で決めてもいないのにそう思っていた。
でもと会ってから、必ずしもそうである必要はないってことに気づいて、自分はもっと頑張れるんだって思って相続の権利を全て拒否した。
両親ともに最初渋ったが、親父が許可してくれた。俺が継がなくても何人も他にいるしな」
ふっとすこし今までのような苦笑や自嘲ではなく、軽く兵助が笑った。
「のことは、親父から聞いたんだ。忍術学園に弟が入学するようだって、それだけだけど。
今まであったことあるあの人の子どもは俺にとってあんまりいいものじゃなかった。
だからあんまり期待もしてなかったんだけど、は初めて打算なしで話せる兄弟になったんだ」
照れるように兵助は言う。
「半分だけなのに血が繋がってるって思うと、愛着が沸くもんだな。にはなんでもしてやりたくなるんだ」
その様子を見て、雷蔵と八左衛門は目を見合わせた。そして笑った。
「なんか、俺らがしたことってあんまり意味無かったな」
少し緩慢に八左衛門が立ち上がる。兵助は首を傾ける。
「兵助が苦しんでるなら話聞くだけでも役に立つかなって思ったんだけど、そんな顔ができるなら必要なかった」
ニッといつもの明るい笑みを浮かべる。
「よかったよ」
雷蔵も立ち上がる。
「なんか僕にはちょっと理解しがたい話だったけど」
頭を掻く。困った笑いを浮かべながら兵助を見下ろす。
「兵助はもっと自信を持っていいと思うよ」
「自信?」
「自分は良いお兄ちゃんなんだって自信」
雷蔵の言葉に兵助が固まる。ポンと軽く雷蔵が兵助の頭を叩いた。
「ただ言葉が足りないみたいなので、今僕らに話したことをに言ってあげると喜ぶよ」
雷蔵は微笑んだが、兵助はポカンと呆けているだけだ。
「さて、雷蔵。どうする?三郎を捕まえに行くか」
「私ならいるぞ」
カタカタと天井裏がはずれ、黒い影が現れた。
「何、三郎。盗み聞きしてたの?」
呆れたと雷蔵がため息をつく。その言葉にムッスリと三郎が拗ねる。
「ここは私の部屋だ。それに兵助のまねをしていただけだ」
「兵助のまね?」
三郎はにやりと笑って兵助を見下ろす。八左衛門が首を捻る。兵助を見やると、兵助は目を見開いて顔を真っ赤にしていた。
「な、気づいて・・・」
固まって三郎を見上げる兵助。どうもその姿は三郎のツボのようだ。噴き出して笑いがおさまらない。腹を抱えて笑う。
「え、何?何のこと?」
「ひー、兵助顔が、すげぇ」
雷蔵の質問も無視して笑い続ける。このままいくと、床に笑い転げそうだ。そんな三郎の首根っこを雷蔵がつかんだ。
「三郎、説明できるよね?」
「・・・はい」
寒気で笑いは見事におさまった。
「私がの話を聞いてる時に兵助は用具倉庫の屋根の上から耳を澄ましてたんだよ」
簡潔に言い放つ。雷蔵と八左衛門が兵助を見るが、兵助は視線を下へずらす。
「ああ、だからどこにもいなかったんだ」
雷蔵が納得して、頷いた。
冷静なその反応に兵助は顔を両手で覆う。穴があったら入りたい状態だ。
「だから私たちはもう用無し。食堂で茶でももらって飲もうぜ」
「お、いいな」
「そうしようか」
三人は一仕事終えたように、兵助をほっといて部屋を出ようとする。ちなみにここは三郎たちの部屋である。
「え、ちょっと、俺も」
三人を追うように立ち上がろうとする兵助を八左衛門が手を向けて制止する。
「兵助はやることあるだろ。茶碗は用意しといてやるから、済ませてこいよ」
ペシっと兵助のおでこを叩くと、三人は出て行った。障子は閉めないままである。
兵助は屈みこんでため息をついた。
すごく恥ずかしかった。正直、雷蔵たちにペラペラと自分の心の内を話すのも恥ずかしかった。
やることはある。立ち上がらなければと思うが、体が重たい。
目を瞑る。の顔が浮かんだ。盗み聞きをしている最中、初めての悲痛な声を聞いた気がした。
まだ、俺は頼りになる兄じゃない。でも、雷蔵は自信を持っていいって言う。本当に、俺は良い兄だろうか。
まだ自分の言いたいことをちゃんと伝えられる勇気は無いけれど。
兵助は大きく息を吸い込むと、立ち上がった。シッカリとした足取りで、部屋を出た。
「、いるか?」
の部屋を訪れて、入口の前から声をかける。三郎のように無遠慮に障子は開けない。
部屋の中からこちらに近づく音がする。すぐにの顔が見えた。
「兄ちゃん、どうしたの?」
「あ、ああ」
の低い身長の奥に部屋が広がる。ほとんど物が無い部屋だ。同室のやつもあまり物を持ち込む方じゃないようだ。
机の上に、紙と筆記用具が乗っている。俺のやった筆だ。
「あのさ、俺はあんまり言葉に出す方でもないし、三郎に態度も分かり辛いって言われたばかりなんだ」
「うん?」
兵助が真剣に話出すが、にはあまり伝わっていない。
「だから、一応いい機会だから言っておこうと思うけど」
兵助の手がの頭の上に乗る。
「は俺の自慢の弟だよ」
の目が見開く。この言葉だけじゃ、足りない。もっと言葉がほしい。
どれだけ俺がのことを尊敬しているかとか、兄弟なんだから気を遣わなくていいとか、伝えたいことは山積みだけど、今はまだ言えない。
は開いた目を細めて、笑った。
「うん、知ってる」
ニッと歯を見せて笑う。
「なんてね」
のおどけた言葉に、自然と顔が緩んだ。
「それでさ、今週末、暇なら豆腐屋にでも行かないか?」
二人で出掛けてゆっくり話そう。それまでに自分の言いたいことをちゃんと整理して、に伝えよう。
そうしたいと今思って、口に出した。
「いいけど」
が困ったように唸りだした。しまいには腕を組む。の頭の上から手をのける。
休みは仕事が入っているか。やはり俺に気を使って言いだせないのか。
「、別に「俺、豆腐屋より蕎麦屋がいいな」
言葉を遮られた。それは俺の予想外の言葉だった。別にどこでもよかった。
ただおいしい豆腐屋を知っているから豆腐屋と言っただけだ。そんなことはどうでもいい。
ただが言ってくれたことが嬉しかった。
「そうか、じゃあ蕎麦屋に行こう」