梅の蕾が開き始める初春。空が仄かに明るくなる早朝、風が冷たく頬が赤く染まる。

は家の外に出ると冷えた手を擦りながら、井戸の水を汲み上げるために縄を引いた。

カラカラと滑車が回る。

正月はとっくの昔に過ぎ去り、彼女は17の年になった。

学生時代の幼さを脱ぎ捨て、今ではすっかり女性と言われる外観。若いけれど子どもではない。

以前から言われていた仕草や習慣の女らしさがそれに拍車をかける。

水をくみ上げ、桶に移す。

それを持ち上げようと腰を曲げたが、伸ばした手は途中で止まる。

体の後ろから一本腕が伸びて、その手が桶の持ち手を握っていた。

の肩には手が置かれており、寒い朝にそれが温かい。

はゆっくりと後ろを振りむくと、ニコニコと笑う目と目が合った。

「おはよ」

聞きなれた声で言われる軽い挨拶。顔と顔の距離が四寸ほどという急接近に、は身を反らす。半歩下がり、顔を逸らした。

「お、おはよ」

寒さではないもので顔を赤く染める。その反応に勘右衛門は苦笑し、一端桶から手を離した。

「もうそろそろ慣れろよ。もう4カ月だ」

勘右衛門がの家の隣に越して4カ月。

学生時はの習慣であった朝の挨拶が、今では勘右衛門の習慣になっている。

毎朝挨拶をしていたと言うのに、言われる側となったはそのこそばゆい行動に未だ慣れない。

「あ〜、まあ、その、その内慣れるよ。うん、ね」

は勘右衛門を見ないで赤くなった頬を隠すように両手で挟んだ。

「期待しとくよ。ま、今のままでも面白いけどね」

余裕の雰囲気で勘右衛門は水の入った桶を持ち上げた。

「あ」

はその桶に手を伸ばそうとするが、目が合った勘右衛門の笑顔に手を引いてしまう。

「洗い場に置いとくから」

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

前より大きくなった気のする背中を見つめる。

それから空を見上げて、あ〜、と声を出した。

嬉しい。心から嬉しい。でも恥ずかしい。

押せ押せなら勢いよく出来るのに、押されると上手く対処できない。

の嬉しい悩みである。





朝食は毎日一緒に食べるようになっていた。

誘ったのはからだった。一人分作るのも二人分作るのも同じだから、と。

それに勘右衛門は嬉しそうに応じた。

食堂で同じ時に食事を取るのとは当然違う。この部屋には二人しかいない。

勘右衛門が食事を終えて箸を置いた。湯飲みに手を伸ばす。

、今日仕事は?」

「今日?今日はお屋敷の下働きよ。たぶん帰るのは夕方になると思う。この間、辞めた方がいてね、暫くその穴埋めなの。というか、もうその人の代わりに女中にならないか、って話もあるんだけど」

「へえ、どうするの?」

「断ろうと思うの。旦那様には申し訳ないけど、女中になると住み込みになるから」

そこで勘右衛門がニヤリと笑う。

「俺と離れたくない?」

はそれに少し頬を染めると、恥ずかしそうに目を反らしながらも小さな声で言う。

「・・・うん」

の素直さに勘右衛門の目が少し見開かれるが、すぐに穏やかに目が細くなる。

「俺もだよ」

は身を小さくしながらも、口元は緩んでいる。

「俺は今日は早く帰ってくるから、何かいるものがあれば買ってきておくよ」

「本当?だったらお魚を2尾。それから、適当に葉物を」

「適当?」

「適当。好きなのを買ってきて」

「難しいこというなあ」

苦笑しながら残りの料理を片付ける。

苦笑する勘右衛門には隠れて笑みを溢した。







実はには最近悩みが一つある。

仕事とも関わる話で、実に面倒で厄介な悩みが。

誰かに相談したいところであるが、勘右衛門にも話すのが躊躇われる話しなのである。

仕事に出て昼食時、コソコソとに近づくのは家の主人の妻。

出された食事を食べ終わったところで手で呼ばれた。

それにため息を吐きたかったが、そうもいかず、極めて愛想よく笑った。

「はい、なんでしょうか奥様」

ニコニコよりもホクホクという言葉の方が似合う笑顔にたじろぐ。

彼女には全く悪意というものはないのだ。それがより問題を面倒にさせるのだと、はまたため息を吐きたくなった。


「ちょっといいかしら」

そう言って妻は部屋の外へ出る。それに続いて出ると、すぐに妻は足を止め後ろを振り返った。

ちゃん、最近体調はどう?」

「おかげ様で、風邪ひとつひいておりません」

「そう、健康は一番の宝だものね。いいことだわ」

おっとりとしたしゃべり方は、彼女の目論見を知らなければきっと癒しになっただろう。

「ところでちゃん、この間の話は考えてくれたかしら?」

「いえ、あの」

きた。は顔を歪めそうになるのを必死で耐えた。

ちゃんも花盛りだもの。もうそろそろ、良いご縁をいただいてもいいんじゃない?」

「ええ、そうですね」

「この間は正吉のことを聞いたけど、正吉は駄目ね。少し細かいからちゃんとはちょっと合わないかも。じゃあ、佐助なんてどうかしら。力持ちだし、男らしくて頼りになるわよ」

「は、はあ」

には佐助がどれかわからない。屋敷の中はそれなりの男手があるのだ。

「もちろん、佐助だけじゃなくて、うちには良い人がいっぱいいるわよ。ちゃんが気に入る人がいるって言うなら、私に場を作らせて頂戴」

この妻、を屋敷の男衆の誰かとくっつけたいのである。

ただの善意なのか、何か腹に持っているのかわからないが、その行為はお節介という他ない。

最近この手の話をなんやかんやつけては振ってくるのである。

この屋敷に出入りする中でまだ嫁にいっていない娘は他にもいるが、その中ではが最高齢で、つまり上から順に片づけようというつもりらしい。

は頭を抱えたくなったが、笑顔を崩さず、いつも通り曖昧に煙に巻くことにした。

「奥様、いつも私などを気にかけていただきありがとうございます」

「あら、いいのよ、ほら、私こういうこと好きだから」

ですよねー、とは言えない。

「ですが、その、佐助さんはちょっと」

「あら、何か問題があるの?」

「問題といいますか、私あまりその、その方を存じ上げませんの。もちろん奥様が勧めてくださるのですから、素晴らしい方だとは思うのですが」

ちゃん、誰だって最初は知らない人よ。知らないのなら知ればいいのよ」

「ええ、仰るとおりです。でも、私なんかじゃ佐助さんという方に失礼です。それどころか奥様の顔に泥を塗ってしまうかも」

「何言ってるの!ちゃんはいい子じゃない、よく働くし気も利くし、器量だって可愛らしいわ」

普通に器量よしとは言ってもらえないんだな、と心の中で少しやさぐれた。

うまくいっている。このまま自信ないことを全面的に押し出して、慰めることに重点を置かせるつもりだ。

「私なんて、醜いばかりで」

「そんなことはないわ。もう、仕方ないわね。もう少ししてから言おうと思ってたのに」

その言葉では嫌な予感がした。今まではこの流れで何とかなっていたのだが。

「佐助に聞いておいたわ、ちゃんのこと。誉めていたわよ。ちゃんは佐助を知らないって言っていたけれど、佐助はちゃんのこと知っていたわよ。優しくていい子、って言っていたわ。ほら、ちゃん、自信もって頂戴。まず話してみるだけでも」

「え、あの」

先回りされていたことに少なからず落ち込む。ああもう、と大声で言って家に帰りたい。衝動を抑えながらは何とか言い訳を考えた。

「奥様」

そんなに救いの手が差し伸べられる。家の隣の奥さんである。

「恐れ入りますが、今からさんにお仕事を頼みたいんです。さんにしかお願いできなくて。お借りできますか」

「そうなの、仕方ないわね」

しぶしぶといった雰囲気で奥さんはを見た。

「じゃあ、ちゃん、考えておいてね」

念を押すと、奥さんは歩いて行った。

私にしかできない仕事といわれて首をかしげたが、隣の奥さんのため息で助けてもらったのだと理解した。

「全く奥様にも困ったものね。悪い人じゃないんだけど、お嬢さんだからかしら。少し遠慮ってものが足りないわ」

「すみません、ご迷惑おかけして」

奥さんは腰に手を当てて仁王立ちする。

ちゃん、はっきり言わなきゃ!『私にはもういい人がいるんです』って」

「いい人だなんて」

の否定する言葉に奥さんはあからさまに不機嫌になった。

「隣の、あの、こういっちゃいけないけど垢ぬけない人、ちゃんのいい人でしょ?どうしてちゃんと言わないの」

こんな田舎じゃ垢ぬけた人の方が珍しいと思う、なんて見当違いなことはとても言えないなとは思った。

「まあ、角を立てたくないって気持ちもわかるけど、はっきりしておかないと知らないうちに縁談進められちゃうよ」

「はい」

煮え切らないの表情に奥さんがまたため息を吐く。

「どうしてそう自信がなさそうなのか。毎朝あんなに仲がいいのに」

奥さんの言い分はもっともである。

はっきりと言ってしまえば、あの妻もそれ以上かまいようがないのだ。

しかしいつもは曖昧にしてしまう。

それは仕事がやりにくくなることを懸念していることもあるが、一番は勘右衛門との関係にあった。

一応、お互いが好きであるということは分かっているのだが、が一方的に好きであった期間が長すぎるせいか、本当に勘右衛門が自分を好きだということに自信が持てないのである。

勘右衛門の気持ちを疑っている訳ではなく、の中ではの好きと勘右衛門の好きとでは比重が違いすぎるのだ。

気持ちの重さなど目に見えるものではないのに、どうしても比べてしまうのだ。

















「どうかした?」

捌こうとまな板に魚をのせたまま動かないを不思議に思って、勘衛門は後ろから首をのばして顔を覗き込んだ。驚いては包丁を落とす。

「ごめん、そんなに驚くとは思わなくて」

「私の方こそ。ちょっと考え事してて」

あわてて包丁を拾う。一息ついて魚に向き合ったところで、手を握られた。

「包丁貸して。俺が捌くよ」

「え、いいよ」

「いいのいいの、今日俺仕事してないし。そもそもずっとに作ってもらってたのが変だよな。俺だって料理ぐらいできるのに」

「そ、そう?」

確かに刃物の扱いは慣れているだろうと思い、は包丁を勘右衛門に譲った。

「じゃあお願い」

じゃあ野菜でも洗ってくるかと袖を上げたが、勘右衛門がを止めた。

「座ってなよ。全部俺がするから」

「いいよ、二人でやった方が早いし」

「いいから。疲れてるんだろ?」

とん、と居間のほうに押される。ボーっとしていたのは仕事の疲れだと勘違いしたようだ。あながち間違いでもないのだが、は騙しているような気になった。

勘衛門が手際よく鱗をはいでいく。

「今日、仕事はどうだった?」

「普通よ、いつも通り」

「そうか」

鱗が削られる音がする。案外様になるものだ。

「悩みがあるなら、いつでも言いなよ。自分で考えるのも大事だけど、答えが出せないのなら相談してほしい」

「うん」

はどこか上の空な風に返事を返した。

勘衛門の言葉もどこか胸に開いた穴から零れおちたかのように、心に残らない。

すでに日が沈みかけ、薄暗い中で逆光の勘衛門の背中に目を細めた。

いつの間にか精神的に追い詰められていたらしい。の目が滲む。しかしすぐにそれを袖で拭った。

「で、相談はしない?」

「・・・もうちょっと時間が欲しい」

「そう」

せっかく拭ったのに、また目が濡れる。じわじわと胸が締め付けられる。

には勘衛門の気持ちが分からない。当然だ。聞いてないのだから。

未来も見えない。

来年も彼はそばにいてくれるだろうか。

いつまでこうして暮らしてられるだろう。

急に消えてしまったらどうしよう。

サヨナラと言われたら耐えられるだろうか。

怖くてとても聞けなかった。











翌日、仕事に時間がかかりいつの間にか外は暗くなっていた。

もう初春だというのに、日が暮れるのは早い。さっさと帰る準備を整えるとは裏から外に出た。

そんな時、後ろから呼びとめられた。相手は今が通ってきた出口から顔を出しているので屋敷の人間だろう。


「今、お帰りですか?」

「はい。あの、何か?」

相手の男は少し戸惑ったようだった。それはも同じで男の顔はおぼろげながら記憶にあるものも名前は思い出せない。

男は屋敷の敷地から出てきての前に立った。

「私のこと、分かります?」

「え、ええ。お屋敷の方でしょ?」

分からない、とすっぱりと言い切ってしまうのは申し訳ない気がしてそう言った。

相手はが自分のことを知らないことを悟って苦笑した。

「佐助と言います。えっと、主に会計の方で働いていまして、今年23で家は」

「あ、あの」

一生懸命自己紹介する男をは手で静止させた。

「何か御用なのでは?」

「いえ、あの、さんの姿を見たのでつい」

少し頬を赤く染め、頭を掻く佐助の姿には衝撃を受けた。なんて分かりやすい人だろうと。

誰がどう見ても彼はに好意を持っているのだ。

それでいておそらく屋敷の妻からのことを勧められたのだろう。

気の強くなさそうな男が今まで接触がなかったのに急に話しかけてきたのは何かきっかけがあるのだ。


「あの、よかったら送って行きましょうか。暗いですし、私はもう仕事終わりましたので」

はぶんぶんと首を振る。家には勘衛門がいる。とてもじゃないがそんなことできない。

「家は近いので」

勘衛門がいるから、と言えなかった。心が湿る。どうして堂々と言ってしまえないのだろう。待っている人がいると言えないのだろう。

は恐れている。期待が裏切られるのが怖いのだ。

自分が望んでいる所まで勘衛門が望んでいないのではないかと、怯えている。

だから、言葉にならないのだ。

「近いので、結構です」

尻すぼみになる声に佐助は首を傾げた。


「近くても暗くなると危ないですよ」



少し大きめの声で呼ばれ、は体を跳ねるように勢いよく振りむいた。暗いが十歩先にいる人の顔など分かる。

「暗くなったから迎えに来たんだけど、仕事はまだ終わらない?」

勘衛門が軽く首を傾げ尋ねながらに近づく。は首を横に振った。

「あの」

おずおずといった感じで佐助がに声をかけた。

「お知り合い?」

がええ、と答える前に勘衛門が代わりに答えた。

「夫です」

「え」

は目を丸くして勘衛門を凝視する。佐助は同じような表情で二人を交互に見る。

さん、旦那さんいたんですか」

もちろんに祝言を挙げた記憶はない。

勘衛門はもう佐助の相手をする気はなさそうで、に視線を合わせた。

「まだ時間がかかるなら少し先で待ってるから」

指で角を差すと勘衛門は踵を返した。

「・・・夫」

「あの、さん?」

「あ、はい」

「私戻りますね。お引き留めしてすみません」

「どうもお疲れ様です」

佐助が敷地に入ったところで、は大急ぎで着物の裾が返るのも気にせずに走った。

角で壁を背に立つ勘衛門を見つけると、駆け寄って着物の裾をギュッと握った。

「吃驚した。どうした?なんかされたか?」

勘衛門は気遣うようにに手を伸ばしたが急に顔を上げたに途中で止まってしまった。

「お、夫!!夫って!!?おっと!夫!?」

「落ちつけよ」

真っ赤に染まったの顔に勘衛門が笑う。

止めてしまった手での髪をなでた。

「そんなに驚くことかなぁ」

「だって、今までそんな話」

「ん〜」

わしゃわしゃと楽しそうにの髪を遊ばせる勘衛門は、少し不思議そうながらも笑顔で言った。

「だって、祝言上げるのが後か先かの話じゃない?」

あっけらかんと言う勘衛門には金魚のように口を開け閉めさせる。

「ずっと、越してきた時から俺はそのつもりだったんだけど、は俺をなんだと思ってたんだよ」

「何って」

好きな人、と言いかけたところで口を噤む。とんでもなく恥ずかしい言葉を吐くところだった。

恥ずかしい気持ちだけは増しているのだが、もう上がる体温がない。これ以上はのぼせてしまいそうだ。

出しきれないそれを表すようにの眉はハの字に曲がり、唇が突き出され拗ねたような顔になった。

それに勘衛門が嬉しそうに笑う。

「面白いなぁ、は」

「面白くない」

「鏡で見せてやりたいよ」

「意地悪」

「昔にされたことに比べればかわいいもんだろ?」

それを言われるとは押し黙るほかにない。

それにも気を良くすると勘衛門はが握っていた袖を放させ、代わりに自分の手を握らせた。家に向かって歩き始める。

「ところで最近元気なかったのってさっきの男のせい?付きまとわれてたとか?」

「さっきの人は無関係。自己紹介してただけ。っていうかそれは」

繋がれた手を見て、は少し強めに握った。

「もう解決した」

袖でこの上なく染まった顔を隠す。勘衛門は前を向いているので見えるはずがないのに、そうせずには居られなかった。







家に帰る。あなたと一緒に。

来年も、再来年も、十年後も、二十年後も、こうしてあなたが私の、私があなたの手の中にありますように。