は空が紫に覆われた時にはすでに校舎裏の木の上にいた。

枝に座り幹に体を預け、空を見上げる。日が暮れて月のない空にはいっそう星がいっそう輝いている。

月明かりがないものの、夜目の利くには困ることはなかった。

丁度食事を取る時間だが、緊張のせいかは何かを口にする気も起きなかった。

はぁ、と心労を体から追い出すように一つ息が漏れる。

上手くいくよう頭の中で想像を巡らせようとするが、始めようとするとすぐに途切れてしまう。

諦めて頭を振り、無心を努めようとするとモヤモヤとやり場のない不安が胸を圧迫する。落ち着こうと体から無理に力を抜こうとしたところで人の気配を感じた。

下を見るとキョロキョロと首を回す影があった。こんな時間に呼び出される以外に来る人間はいないだろう。

胸の鼓動が速くなるが、それを手で押さえるようにして深呼吸をする。

それからスルリと地に下りた。

下にいた人間と目が合う。やはり仙蔵だった。

「何だ、上にいたのか」

「うん、暇だったから」

「そんなに待ったのか?」

薄暗く表情は見えにくいものの、声の調子からどことなく相手の気持ちが窺い知れる。

「そうでもないわ」

「そうか」

間が開く。

呼び出した以上、話を進めなければならないがどう切り出したらよいか分からない。

持ってきた饅頭を胸の位置で握り、意を決して口を開こうとした。

「それで、何の用だ。こんな所に呼び出して」

仙蔵に出鼻をくじかれ、口が空気を噛んだ。

一旦呼吸を止め、落ち着けるように一度息を吐き出す。

手を前に出し、饅頭の包みを見せた。

「これなんだけど」

「何だそれは」

「お饅頭」

三歩進んで仙蔵の胸の前まで運んだ。

近づいて薄暗くも仙蔵の表情が分かるようになる。

仙蔵の眉間の筋が動く。

「何の薬が入ってるんだ?」

「何も入ってないわよ」

この反応は予想していた。ほとんどの忍たまがくの一から食べ物を差し出されれば、同じように訝しがるだろう。

「本当よ。まあ、受け取らないならそれでもいいんだけど」

あくまでこれはきっかけに過ぎない。

引っこめようとしたの手を仙蔵が握った。

「私を誰とかに渡せと使いっぱしりにするつもりか?」

「はあ?」

「文次郎に、などと冗談を言うなよ?」

「何言ってんの鼠男」

「長い付き合いだ、相手によっては受けてやらんでもない」

は少し不機嫌そうに勝手に話を進めて行く仙蔵にやるせない気持ちでため息を吐いた。

所詮仙蔵にとってのなどこの程度なのだと思い知らされ気がした。

「これは、鼠男、あんたによ」

「・・・まったくもってお前の意図が読めん」

そう言いながら仙蔵はの持っていた饅頭を受け取った。

の手が力なく下りる。毒入りを疑われるまでは予想していたが、他の人間へのお使いだと勘違いされることは全く想像の範囲外だった。

「適当に、おやつにでもしてちょうだい」

「訳のわからん奴だ。だがまあ、貰っておこう。・・・まさか用はこれだけなのか?」

この問いに頷きたかった。

まだ先ほど会ったばかりだと言うのに、は疲れていた。

だが一度決めたことをすんなり曲げてしまえるほど、は器用な性分ではなかった。

「変なことを言うと思うだろうけど」

「今更だな」

余計な合いの手だと思うが、これは平素の仙蔵の態度だ。

は一度腕を組み、指で数度二の腕を叩くと落ち着いてまた腕を解いた。

「私、あんたのことが好きみたいなの」

投げやりに出された言葉はもうほとんど仙蔵の答えを期待していなかった。

ただ自身の目的を果たすために口にした。

仙蔵の目は見開き、白目の部分が広くなる。

そんな反応もの予想通りで、その後申し訳なさそうに「すまない」と言うだろうというところまで予想済みで、そしてそれに自分は諦めたようなため息を吐くのだと思っていた。

しかしまたの予想は外れる。

「ずいぶん曖昧な表現だな。みたい、と言うことは誰かから何か言われたのか?」

「違うけど」

歯切れの悪い言葉。恥ずかしさからつい有耶無耶とした言葉を選んでしまう。

「誰かに唆された訳ではないと言うわけか」

「唆されたって何よ」

まともに取り合われていないことには憤慨する。

仙蔵は気にせず目を細めを見下ろした。

「それで、なんだ?それだけか?」

「え?」

仙蔵は今にも踵を返して帰りそうだ。

仙蔵の反応に焦る。何度も女子から同じことを言われながら、その先が予想できないはずがないと言うのに、仙蔵は言わなければ聞かない様子だ。

他の女子にもこの態度なのか、だからこのような仕打ちをするのか、には判断できかねたが、ここで終わらせては後に未練を引きずるような気がした。

「待って」

「何だ」

「・・・鼠男から言うことは何かないの?」

の問いに、僅かに仙蔵の頬が動く。

しかし出そうとした言葉は飲み込まれ、から視線が横に流れた。

「特にないな。呼び出したのはお前だろう」

「・・・そうね」

もっともな意見には憂鬱になる。

どうにかしたいのなら自分で動くしかないのだ。

普段睨むように仙蔵を見上げるだが、今回ばかりは眉が下がり情けのない表情で、夜の闇が尚彼女を弱そうに引き立てた。

「できるなら、私はその、恋仲になってほしいと思うの、鼠男に」

戸惑いながら自分の願いを口にしたは仙蔵の顔を見るのが恥ずかしくなって視線を下げた。

どのくらいだろうか。には長く感じられる無言の時間が作られた。

ふむ、と一言もれると罪状を告げられる罪人のようにの背筋が冷たくなる。

「そうか、そうだな」

重い雰囲気を感じさせない声はを不安にさせる。

仙蔵は何かを企むように目を細め、片側の口角を吊り上げ笑った。


「お前がどうしてもと言うのなら、考えてやらんでもない」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。「は?」と一つ息を吐くように尋ねた。

そして徐々に答えを理解すると今度は体が重くなり、硬直した。

自然と拳が握られる。

軽んじられた。真面目に受け取ってもらえたとは到底思えないような答え。

は仙蔵の召使になりたいわけではない。仙蔵に媚びる気は少しもなかった。

力んだ口を無理に使い絞り出した声は震えた。


「あんたがまともに相手にしてくれると思った私がバカだった!!」


掠れた声が自分の傷ついてる様を克明にして、涙腺を緩めた。

睨みつけてやりたかったが、濡れた目などとても相手に見せたくない。

は顔を下げたまま仙蔵に背を向け走り出す。

頭の中で絶叫しながら、目的地もなく走る。

頭の中は真っ白だ。自分を慰める言葉も仙蔵を憎む言葉も、何も浮かんでこない。

ただ行き場のない憤りが体を支配していた。上手く呼吸できず喉が痛む。

全力で走っていたの腕が掴まれる。強く後ろに引かれ、骨が軋んだ。

「馬鹿者!もう少し話を聞かんか!!」

振り向いた瞬間浴びせられた大声に一瞬怯むものの、すぐに怒気を露わにする。責められるいわれはない。理不尽だと感じた。

怒りに任せて仙蔵の腕を振り払う。

「話を聞けですって!?あんたの上から目線の答えで十分よ!これ以上どう自分を抑えてあんたの話を聞かなきゃいけないのかさっぱり分からないわ!」

涙はすっかり引っこみ仙蔵を怒鳴り付ける。

「考えてなんてもらわなくて結構よ!」

再び背を向けようとするを再び仙蔵の手が制す。

は隠すことなく顔を歪めた。

「離して。気分が悪いわ」

「聞け、話を」

「悪口なら影で言ってちょうだい。今正面切って聞く気にはならないわ」

「・・・悪かった」

からかいが一切含まれない声を聞いて、は落ち着くように一度ため息を吐いた。

しかし顔に出た嫌悪感が消えない。

「私は本気で言ったのよ」

「すまない」

「腕、離して」

「少し我慢してくれ」

仙蔵から目を反らしつつ、話を聞くように間を置いた。

「本当に悪かった。少し、舞い上がっただけだ。まさかお前からあんな言葉を聞かされると思っていなかったから」

はウンともスンとも言わない。ただ目には先ほどのことを思い出してか、縁に涙が溜まっていた。

「思ってもみなかった。だから、あんな馬鹿な振る舞いをしてしまった。いや、そうじゃなく」

仙蔵の眉間が困ったように垂れ下がり、目が泳ぐ。一度小さく口を開いたものの噤まれた。

一度目を伏し、覚悟を決めたようにを見る。そんな一連の行動もの目には入らない。

「今こんなことを言っても信じられないだろうが、私はお前のことが好きだ」

の眉間の皺がより濃くなった。せせら笑うように口が歪む。

「よくそんなこと言えるわね。仰る通り信じられないわよ」

千佳の腕を握る力が強くなったが、千佳は気付かない振りをした。

「あんた驚いてたじゃない。思ってもなかったって言ったじゃない。私に興味ないのよ、それは。ちょっとだって私の気持ちに気付かないで・・・」

語尾に進むにつれ、悔しそうに顔を歪める。数日間、悩んだのが馬鹿みたいだ。

そんなの思考を仙蔵が阻害した。

腕を横に動かしの体を正面に向けさせる。腕が止まったところでは拒否するように腕を引こうとしたが力の差には敵わず、それどころか仙蔵はもう片方の手での顎を掴み無理やり首を回され、仙蔵の切れ長の目とかち合った。

山で恋心を起こさせた力強さが今では不愉快に感じる。

「笑わせる」

台詞に似合わず苦い声だった。その顔は目どころか口元さえ笑えてない。

は何かしでかした、と一瞬罪悪感を抱いたが顎にかかる力にまた怒りが舞い戻る。

「気持ちに気付かないで?はっ。私の言葉が信じられない理由にそれを入れるのか。ならばお前の言ったことは到底信じられるものではないな」

顎を振ろうとするが、首の力が手に敵うはずもない。

手で掴んでみるが、やはり力の壁の前には無力だ。

「お前、一度でも私がお前を好きだと思ったことがあるか?ないだろ?私の視線に気づいたことなどないはずだ」

一度呼吸が止まる。確かになかった。好きになってからもなかった。

自分の言ったことが自分に降りかかる。

「私がいつから好きだったかなんて皆目見当もつくまい」

「・・・いつよ」

この質問に仙蔵は少しだけ口角を上げた。

「いつだと思う?」

「・・・分からないわよ」

バツが悪そうに目だけ動かして下を見ようとした。

「二年の時から、もう四年だな」

「・・・よ、四年?」

あまりの長さにの目が丸くなる。その反応に仙蔵は鼻を鳴らした。

「ほら、知らんだろう。思ってもみらんだろう」

顎を掴む力が抜け、手がそのまま頬へ移る。少しかさついた感触が頬を刺激する。

仙蔵の目が微かに細くなる。眉間の皺が薄くなった。

「饅頭を受け取った時、私がどれだけ嬉しかったか知るまい。毒が入っていようと構わなかった」

すっと、目の縁が撫でられる。

「お前の言葉を聞いた瞬間、夢とさえ思った」

上に登りこめかみに。髪の生え際に。

「今も目が覚めるのではないかと、恐れていることも知らんだろ」

前髪を撫でつけ、また頬に戻る。

「・・・これを悪夢にさせないでくれ」

切れの長い目がを見下ろす。

不安から影を帯びた表情は仙蔵を大人びて見せた。

そっとの手が上がり、仙蔵の手に添えた。向き合っていた目を少し斜めに反らす。

「ちょ、っと、待ってよ」

すっと仙蔵の手がの頬から離れる。

の口がキュッと結ばれ、自信がなさそうに眉が垂れた。

仙蔵の雰囲気に押されて暫くの流れが思い出せないでいる。

「告白してたの私のはずなのに、何でこんなことに」

困惑する頭を整理するように口からそんな言葉が漏れた。

答えが欲しかったわけではなかったが、仙蔵は一瞬思案すると至極当然そうに言った。

「私がお前を好きだからだろう」

「え、あ、そうね、そうなのね」

何の飾りもなく真っすぐ言われて、に羞恥の気持ちが起こる。急に頬が熱くなった気がした。

そんな反応に仙蔵が顔を顰める。

「それで、どうするんだ?」

「え?」

問われた意味が分からず仙蔵を見上げるに呆れたように片眉を下げた。

「付き合うのか、付き合わんのか、どっちだ」

一拍呆ける。そこからハッと現実に戻ってきたように目が微かに動いた。いつのまにか怒りはどこかへ消え去っていた。

「あ、どうする?」

「・・・お前な」

ふっと息を吐くと腕を掴んでいた手を放し、の脇の下から背に回した。を抱き寄せると、体が密着する。反射的に後ろに下がろうとするが、そのまま力に流された。

「なぜ『付き合う』と言えん。本当にお前は残念だな」

「なっ」

「以前、残念の意味は女らしさがないからだと言っていたな。はずれだ。お前が残念なのはいつも私の予想を裏切るからだ」

仙蔵が背を少し屈み、二人の顔の位置が近づく。

の顔に一気に血が上る。微かに仙蔵の頬にも朱が差す。

慌てるに仙蔵は余裕そうに笑みを浮かべた。

「さあ、どうする?」

少し悔しそうにしては仙蔵の衣を強く掴んだ。

「そうやって分かってるのに最終的な選択をさせようとするところ、ずるいわよ」

クスッと仙蔵が笑った。また手がの頬に触れる。

「鼠男、そう呼んだのはお前だろう?」

肩を抱きしめ二人の体の距離が0になる。

は恥ずかしそうに顔を横に向ける。

「あの、じゃあ、よろしく・・・」

たどたどしく精一杯のの答え。

仙蔵は今まで見せたことのないほど嬉しそうな笑みを浮かべ、照れを隠すようにフンと鼻で笑った。






〜fin.


back 残念賞と鼠男