「よお」

軽い挨拶はこの間までここで一緒に挨拶をしていたくの一に向けたものだ。

「おはよう、鉢屋君」

二コリと笑って、受ける

もう彼女が朝、私の隣で勘右衛門を待つことはない。

私がそれを知ったのは、彼女が朝の待ち伏せを止めたその日の朝に遡る。












私は雷蔵がまだ起きていない時刻に布団から這い出て、身支度を整えると食堂へ向かった。

だが、毎朝必ず私よりも先にいる姿が見当たらない。寝坊だと思ったが、朝食をとるならどうやってもここを通るだろうと食堂前でを待った。

普段が話し相手になっているから、長い時間もそう感じないが、今は一人だ。ひたすら考え事をしても飽きてしまう。

少し人気が出てきた頃、はよく一緒にいるのを見かけるくの一と一緒に現れた。

私の顔を見た瞬間、しまったという顔をする。

「ごめん、鉢屋君」

友達より早足になって私に向かってくる。何故か小動物を彷彿とさせる。

「あのね、私もう朝のあいさつ運動は止めたの」

私はその言葉を簡単に理解した。そして自然に眉間に皺が寄った。

「何で」

は苦笑する。

「もう勘右衛門のことは諦めることにしたの」


が、か?」


の台詞はだからこそ信じられないものだった。

言い方は悪いが、は執念深い、と私は思う。もちろん、勘右衛門に対してのみ。

昔から後ずさりされるほどの反応をとられていたのに、諦めなかったのは周知の事実。

そんな人間が「諦める」と言うのは余程のことだ。

私の質問にはニコリと、諦めた人間にしては爽やかな笑みを私に向けた。

「私が、よ」

拍子抜け、したのかもしれない。

いや、予想外すぎて意味は理解できても感覚として捉えられないのだ。

もし終わる時が来たら、きっとは落ち込んで荒れるんじゃないか、と思っていたから。

あれだけ執着したものをキッパリと諦められる、というのが私には分からない。

笑っていること自体が不思議だ。昨日まで、彼女は確かに勘右衛門を待っていたのだ。

しかし実際にはもうここで朝、勘右衛門を待つことはないようだ。

「理由とか、聞いていいか」

「上手く説明できないけど。ほら、よく言うでしょ、恋は思い込みだって。あれだよ。思い込みがなくなったらストンって消えて、無くなるの。私はストンってなくしたの。駄目だって思ったらもう駄目なんだね。勘右衛門が私のこと好きになってくれないって私の中で確信できたら、急に熱が冷めたの」

よく言うが、実感したことはない。自分で思い込んでいるわけではないから。

「理由はそんなもの。本当にごめんね、鉢屋君に先に言っとくべきだった。暇だったでしょ」

「まあ、そうでもない」

そうでもない。今はそう思える。

「ふ〜ん。あのさ、私、鉢屋君が朝、一緒に待ってくれるようになってからとても楽しかった。仲良くも慣なれたしね」

「やめろ、恥ずかしい」

「人が照れるのを見るのは楽しい」

「悪趣味だ」

ニコニコと明るい笑みを浮かべるは本当に引きずっていないようで、落ち込んでいる姿を見ずに済んでよかった。

図書館で浮かべたあのの笑顔は勘右衛門への笑顔だが、今は俺への笑顔だ。

つい頬が緩む。

「じゃあ、私ご飯食べるから。またね」

「ああ。またな」

は待たせていた友人と一緒に食堂に入った。

本当にもう、ここでが立っていることはないのだ。














「ところで、鉢屋君は何でまだ食堂前に立ってるの?もう私はしないから暇つぶしの相手はできませんが」

さて何と言おうか、と考えたところでの同室の顔が目に入った。ニヒルにニヤリと笑って見せる。あくどい顔だ。

「朝起きるのは体に良いだろ?ここに立っていれば、自然と他の人間がチェックすることになる。宣言するのとしないのでは持続できる効果が違うと思わないか」

我ながら苦しい言い訳だ。健康に良いって、私はどこの爺さんだ。

「あ〜、なるほど。頭の良い人の考え方は違うね」

納得したのか。まあ、言い訳は相手が納得してくれないと何の意味もないのだが、後ろにいる奴が声を押し殺して腹抱えて大爆笑しているのが腹立つ。いつか指をさして笑いそうだ。

仕返しにいつか変装して悪戯してやる。



「じゃあ、頑張って。健康のために」

最後の一言に含みがありそうだが、は何気なく言ったようだ。

含んでいるのは後ろの奴だ。くそっ。

口を押さえて私を見ながら隣を通り過ぎる同室くの一。

こんな屈辱は初めて味わった気がした。

ふてくされて壁に背を預け、私は後から来る友人たちを待つ。





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