時が一回りし、彼らは6年に上がる。
歪になった関係は敬遠することでしかやり過ごせなかった。
そしてまた時は立ち、桜の蕾が咲く頃、彼らは学園を卒業した。
涙を惜しまず流し、また生きて会おうと仲間と誓い合った。
初めて庇護をなくした彼らの世界は目まぐるしく動き、気が付けば秋を迎えていた。
、16歳。
彼女はくの一に向かないことを自覚し、町に出て奉公し始めた。
学園で身に付けた作法と学があるためそれなりに重宝されるものの、女の身は理不尽な因縁を引きつける。
それでも何とか暮らしていた。
休みの日、一人で住み始めた長屋の前の落ち葉を掃く。
すぐに冬を迎えるだろう。空には薄い雲が張っている。
落ち葉を片付け終え、部屋に戻る。一昨日、隣の住人が引っ越してから家の周りは少し静かになった。
かまどの中を覗き、炭の量を確認する。まだ足りそうだ。
冬に備えて、衣類も防寒の物を取り出しやすい所に移動させなければならない。
今日一日を身の回りの整理に使うつもりでいた。
そんな彼女の予定を狂わせる人物が現れるのは正午を過ぎてからのこと。
戸が叩かれる音がする。
忍者でないが女一人身である。声のかからない戸に慎重に近づく。
耳をそばだてると相手が一人であることを確かめ、小さく戸を開けた。
目の前には知った顔があった。
開かれた隙間から相手と目が会い、相手は嬉しそうに目を細めた。
「よお」
ゆっくりと人の全身が見えるほど戸を開けた。
「久しぶり、鉢屋君」
相手に合わせて満面の笑みを浮かべたいところだが、引きつってしまった。
「ああ、久しぶりだな。元気だったか」
「うん、元気よ。鉢屋君も元気そうで何より」
は鉢屋が城仕えに決まったことを耳に挟んでいた。
危ない世界に身を投じた相手の五体満足な姿に安心する。
「今、いいか?」
そう聞かれて部屋を振り返る。
「掃除していたから散らかっているけど、良ければ中に。寒かったでしょう」
「悪いな」
部屋に招くと、三郎に座ることを促した。
は湯を沸かす。
突然の訪問者に、はどう対応していいか迷っていた。
あの日から、三郎と話すことはなかった。
茶葉を入れた急須にお湯を注ぎ、蓋をして湯飲みと一緒に盆で三郎の前まで運んだ。
「は今、何してるんだ?」
「色々なところにお手伝いに行っているの。手が足りない所で女中したり、一時的にお店のお手伝い頼まれたり。知り合いが出来て、紹介してもらえるの」
湯飲みを返し、急須を回して茶を入れる。
「いつかはちゃんと特定の場所に勤めたいと思ってるんだけど」
一滴まで入れ終わり、茶を三郎に進める。
三郎も一言断って、口を付けた。
「鉢屋君は、お城仕えでしょ。大変だね」
「まあ、まだ一年も経たないからな。慣れたら、少しは楽になる」
お互いに強張った笑みを浮かべる。会話が上手く流れない。
三郎は湯飲みを置いて「あ〜」と気の抜けた声を出した。
「今日は、に会いに来たのは」
胡坐をかいていた足を正座に直し、床に両手を付いて三郎は頭を下げた。
「申し訳なかった」
「な」
深々と下げられた頭と、他人行儀な謝罪の言葉には慌てる。
三郎の方に手を伸ばし、頭を上げてほしいと手振りするが三郎には見えていない。
やっと声を出す方法を思い出す。
「何で謝ってるの!?頭を上げて!鉢屋君が謝ることないよ!?」
パタパタとうろたえるの行動に三郎はの言うとおり頭を上げた。
「あの時、別れるって言えなくて本当に悪かった」
顔を上げた三郎は真っすぐにを見る。
それにも動きを止めて、大人しく座った。
「ああいう場合、繋ぎとめても良い方に転換することなんてないって分かってるのに、認めたくなくてな。いっぱいいっぱいでの気持ちなんて考える余裕なんてなかった」
一年以上過ぎてから語られる胸の内。
時が過ぎたからからこそ言葉にできる。
「鉢屋君が謝ることなんてないよ。原因は私にあるんだから」
昔のことだけれど、解決していなかったこと。
解決していなかったけれど、今更なこと。
今なら、全て出せる気がした。
「私も、あの時自分のことしか考えられなくて、先のこと考えてなかった」
きゅっと拳を握る。
あの時とそれは同じだが、目はしっかり三郎を見ている。
「そもそも告白を受ける時、安易だった」
『私は失恋したから他の人の恋が成就してもいいんじゃないかなって思ったから』
なんて高慢な考えだったのだろう。
本当にその人のことを考えるのなら、そんな答えを出すべきではなかったのだ。
随分前から選択を誤っていたのだと思うと、自分が救いようのない愚か者に思えてくる。
「それは、謝らないでくれよ」
三郎がの謝罪に苦笑した。
の目がキョトンとする。
「私は、に良いか、と聞かれて良いと言ったんだ。それにそれを謝られたら付き合っていた間が全て駄目になってしまう」
三郎が優しく笑う。
「私は楽しかったんだ。と付き合っている間、確かに辛いこともあったが、楽しかったし幸せだった。嬉しかった。何物にも代えることはできない」
目で、は?と問いかける。
は頷いた。
「私も、楽しかったよ。鉢屋君と話したり、出かけたり、冗談言い合ったり。すごく楽しかった。ありがとう」
それに三郎は満足そうに頷く。
「じゃあ、」
静まる空間。しかし、三郎が来る前の様な寂しい静けさではない。空気の一片に賑やかさが混じる。
「別れようか」
一瞬固まるだが、すぐに悪戯する子どもを見た時のような笑みになる。
「うん、そうしよう」
もう一度急須に湯を入れ戻ると、三郎がニヤニヤとしていた。
「何?」
「いや、ちょっと思い出してな」
「何を?」
普通の返しなのに、三郎は一段と笑みを濃くする。
「、私が何でを好きになったのか、気にならないか?」
質問したはずなのに質問で返された。
しかしそんなことを気にする余裕なく、の顔は赤く染まる。
三郎から目を逸らした。
「まあ、聞きたいかって言われたら興味がないわけでもないんだけど、いやでも恥ずかしい」
ぶつぶつと言うの反応に三郎は噴き出した。
「反応が初だなぁ、面白いよ、は」
そう言われてしまえば返しようが無くなる。
「まあ、座れ。話させてくれ、せっかくだ」
促されてしぶしぶと言った感じでは座り、先ほどと同じように茶を差し出した。
「はいつ私に好かれたと思う?」
「そんなの分かるわけないよ」
「少し考えてみろよ」
「え〜」
学園時代を思い返す。懐かしいが、三郎との関わり合いなど朝の挨拶くらいだ。
「朝の、あいさつ運動中?」
「それはを好きになってからだよ」
「え〜」
それ以前はほとんど話したこともなかった。
思い浮かばない。
「降参?」
「・・・降参です」
嬉しそうに聞く三郎には悔しそうに答えた。
「正解は、が勘右衛門を教室から覗き見しているとき」
場面は鮮明に思い出され、昔のことといえどに恥という感覚を想起させるには十分だった。
「な、な!見てたの!?」
「見てた。ずっと見てた。気付かなかったろ?」
項垂れる。穴があれば入りたい心境。
「は勘右衛門だけを見てた。だから私には気付かなかったんだよ」
笑って茶を口に含む。
恥ずかしさで動けないを見つめ笑う。
「でも、それが良いなって思ったんだ」
からかうような色が消えて、優しさを含んだそれには目を三郎に向けた。
「真っすぐなのが良いなって思ったんだよ。私を見てほしいってのもあっただろうけど、たぶんみたいになってみたかったんだ」
初めて知らされる真実に、驚かされる。
当時、学園内ではもう諦めればいいのにという目がに向けられた。
そんな状態であったのに、その一途さを知らないところで認められていた。
そのことに言いようもない温かさが胸を包む。
「格好良く、私を振ったことを後悔しろよ、と言ってやりたいところだけど」
湯飲みの中を全部飲みほして三郎はニッと笑った。
「やっぱ後悔はしてほしくないな」
優しい言葉にの涙腺が緩む。
「幸せになれよ」
彼は優しかった。常に優しかった。
人の気持ちが分かる人だ。痛みが分かる人だ。
だからこそ優しい人だ。
いつも傷つかないように、大切に扱ってくれる。こんな人が近くにいたなんて、なんて幸せ者だったのだろう。
以前流した涙とは違う。温かい涙が頬を伝った。
「泣いちゃってごめん」
恥ずかしそうに赤くなった目を抑えては言う。
出入り口に立ち、三郎はすでに外側にいる。外は少し赤みを帯びている。
「いいさ。そういう時もある」
軽く言われ、は自分の情けなさを笑った。
カラスの鳴く声がする。
「しかしこの長屋は寂しいな。夕方なのにこの人気のなさは」
「一昨日、お隣さんが引っ越しちゃって。子どもが5人もいなくなっちゃったから余計ね」
キョロキョロと三郎は周りを見渡す。
「隣いないのか。気をつけろよ。女の一人身は危ない」
「分かってる。まあ、私も武術を多少嗜んでいたわけだし、町人の男くらいになら負けないよ」
「過信は身を滅ぼすぞ」
呆れたように言うそれに苦笑するしかない。
「女一人に良く長屋貸してくれたな」
「ああ、そこの大きなお屋敷分かる?そこが大家さん」
「へえ、立派な」
遠くからも分かるほどしっかりした屋敷に三郎が感嘆の声を上げる。
「何度かお仕事してたら気に入って頂けて、安く貸して下さっているの。だからお手伝いの賃金は多少値引きしてる」
「あんなお屋敷の人と知り合いならいいな。信用できる人か?」
「う〜ん、今のところ良い人よ」
まだ会って数カ月。人間の中身なんてそうそう分からない。
目の前に人間が良い例だ。ジッと三郎を見てみた。
三郎はまるでの心を読んだようにニヤリと笑った。
「じゃあな、。もしかしたらもう会えないかもしれないが」
夕日が逆光になり、三郎の顔が翳っているようにいるように見える。
は急に寒くなった気がした。
戦乱の世。忍びの三郎だけではない。一般人になったもいつ戦禍に巻き込まれるかわからない。
「うん、そうだね。でも、またねって言わせてよ」
別れは明るい方が良い。
三郎も自分の湿った言葉を吹き飛ばすように彼らしく笑う。
「またな」
「またね」
会えるかどうかわからない。
でも会えることを願って見えなくなるまでその背に手を振った。
木枯しが吹く季節。
仕事を終えたは身を縮めるようにして長屋へ帰ってきた。
戸に手を掛ける前に同じ長屋に住む奥さんに引き止められる。
寒い中長話はきついが、貴重な情報源だった。
「そういえば、ちゃんのお隣、人が入るらしいわよ」
「へぇ、そうなんですか。どんな人でしょうね」
「どうかしらねぇ、変な人じゃないと良いんだけど」
「物騒な世の中ですからね」
世間話を繰り返し、奥さんが飽きてからやっとは自分の部屋に入ることができた。
冬が来て、狭い一室に陽が入りにくくなり、一人でいることが尚のこと寂しく感じられるようになった。
寒い寒いと庵に火を入れる。
部屋着の綿入れを着こんで丸まった。
それから数日後、の家の戸が叩かれる。
夕飯の支度をしていたは手を拭い、そっと外を窺った。気配は一つだ。
「すみません、隣に越してきた者ですが」
その声に、は戸を開けた。
似た声の人かもしれない、と思ったが戸の先にいた人物は思い描いた人だった。
瞠目するに相手は愉快そうに笑った。
「久しぶり!」
「え、あ、ええ、久しぶり」
掛けられた声と違い、やっと出した返答。相手は嬉しそうに目を細める。
「勘右衛門、どうしてここに?」
「どうしてって、隣に越してきたんだよ」
当然のように言う勘右衛門。確かに彼は最初そう言った。
「隣に・・・。すごい偶然ね」
「いや、偶然じゃなくて」
驚いて頭の回転が鈍いの目の前で手を横に振る。
「三郎に会ったんだろ?」
「え、うん。秋ごろ」
「その時に手付金払っておいてくれたんだって」
さらっと言われるそれにまた目を見開く。
頭の情報が上手く整理されない。
「俺、それ聞いたときほど三郎に感謝したことはなかったね」
おかしそうに笑う勘右衛門だが、目の前の人間にそれほど余裕はなかった。
それに気付かず、話は進められる。
「本当はもっと早く来たかったんだけどさ、の居場所が分からなくて」
困った、と頬を掻く。
特に誰にも口止めなどしていなかったのに、居場所が分からないとはどういうことか。
「の同室のくの一。あの子が情報規制してたらしくてさ、俺には教えるなって。直接会ったんだけど、鋭く睨みつけられて怖かったよ」
「え?あいつが?」
学生時代の友人を思い出す。
何故そんなことをしたのか分からない。
「を泣かせたから駄目らしい。言い返せなかった」
「は?」
泣かせた。そう言われて、自分の失恋した当時を思い返す。
あれだけ泣けば確かに相手の好感度は下がるだろう。もしかしたら友人は勘右衛門のことが好きでなかったのかもしれない。
いつも不器用な優しさが友人の特徴だった。
「まあ、三郎から教えてもらえたんだけどね」
悪戯っ子のようにニッと笑うと、すぐに勘右衛門は顔を引き締めた。
学園にいた時よりも大人びた逞しい表情。ドキリと胸がなった。
「俺、が好きだ」
以前、同じ人から同じ台詞。でも前より余裕が含まれている。
「好きだ、今でも。ずっと忘れられなかった。時間が立てば薄れるなんて嘘だ。会えなくて辛くなるばかりだ」
お互いの頬に少し朱が入る。
は勘右衛門を見て、目を逸らすことができない。
「こうして会えた今も苦しい。胸が張り裂けそうな思いってこういうことを言うのかな。嬉しいのに苦しくて、自分じゃどうしようもないよ」
苦笑する勘右衛門。
言葉の一つ一つが真摯な声で伝えられるため、冗談などと思えない。
「、好きだ。でも、が俺のことを好きじゃなくてもおかしくないなと思う」
反射的には首を振りそうになるが、抑える。
「それでもいい。もしに好きな人が出来ていてもそれでもいい」
勘右衛門の唇が弧を描く。
「これからは毎朝、俺がにおはようって言うよ。俺のこと好きじゃなくても良い。俺がに好きになってもらう様に頑張るから」
勘右衛門は視線を下にやると、の指先を掴んで持ち上げた。
は一瞬驚いたが、引っこめようとしなかった。
指を通してお互いの体温が分かる。
照れくさそうに勘右衛門ははにかんだ。
「でも、出来れば笑ってほしいかな、なんて」
はそこで自分の目の縁に溜まる涙に気が付いた。
目の下を抑えて止めようとする。
「、好きだよ」
短い時間の間に何度もささやかれる言葉。
止めようとする涙が止まらない。
「の笑顔が好き、笑う声が好き、強いところも弱いところも、優しいところも好きだ。でも、知らないところもたくさんあると思うんだ。だからそれも知りたい」
一粒二粒と涙が零れ落ち、勘右衛門はそれを愛おしそうに眺める。
「私も」
涙でうるみ、頬も涙で濡れている。
その顔を上げては言う。
「私も、勘右衛門が好き」
何年間も言えなかった、伝えられなかった言葉が、今から勘右衛門に届いた。
真っすぐな目で言われ、勘右衛門が微かに目を開くがすぐに嬉しそうに笑う。
そしても満面の笑みを、幸せそうに描いた。
〜fin〜
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