一向に前を見ようとしないを三郎は余裕のある笑みで見ている。

朝、放課後に会おうとに言われてから三郎は彼の勘の良さで何があるか悟っていた。

強く着物を握り、今にも泣き出しそうなに申し訳ない気持ちを抱く。

話は自分から切り出したくなかった。





の口が小さく開いたり閉まったりを繰り返す。

体が硬直して声が出ない。

緊張ではなく恐怖。今から人を傷つける恐怖。

目を一度硬く閉じた。とても三郎を見ることなどできそうにない。

震えそうになる体を抑え込んで、はやっと声を出した。

「別れたいです」

か細い声は何かほかに音があればかき消されていたであろう。

しかし話すためにが指定した所は学園内で図書館の次に静かな場所であった。

三郎は息を吐き出す。驚きはない。焦りもない。ただ心に沁みた。

は三郎の反応をおずおずと俯けた顔にある二つの目で窺う。

三郎の穏やかな様子は更にの体を固まらせた。

怯えた様子のに三郎は笑う。

「そうか。まあ、そんな気がしなかったでもない」

明るいと言えないが、落ち込んだ様子のない声色は三郎が予感していたことを教える。

しかし三郎の声だ。表層が正しいとは限らない。

「最初から、想っていたのは私の方だ。こういう結果になることも考えていたよ」

苦笑する三郎。

刃が薄く、心を傷つける。そう、最初から今まで、は三郎を恋慕の対象として見られなかった。

それはあまりに薄情な話。それを心の持ち主であるではなく三郎が語る。

「わざわざ悪いな。まあ、は律儀だからこうなるか」

三郎は軽い調子で言った。別れ話をしているとは思えない。

まるで自分の心の内を隠すためのようだ。見えないものが不安を呼ぶ。

律儀。はその単語に引っ掛かりを覚えた。

別れ話をするのは律儀だろうか。それとも三郎は避けるようにして、自然消滅が普通だと思っているのだろうか。

その疑問もすぐ、どこか居心地の悪そうに頬を掻く三郎の発言で解かれる。

「勘右衛門と付き合うんだろ?」

「・・・え?」

は予想外の言葉に目を見開く。そしてその反応に三郎が眉間に皺を寄せた。

「勘右衛門と付き合うから、返事をする前に別れに来たんだろ?」

にとっては頭の片隅にもなかった、見当違いな考え。

それに絶望したようには首を振った。言われたこと自体信じたくなかった。

「そんなわけ、ないでしょ」

途切れながらのの否定に三郎の眉間の皺が濃くなる。

「勘右衛門に告白された。だけど私と付き合っているから、先に私と別れて勘右衛門に返事をし直すんじゃないのか?」

三郎は早口になっている。

責め立てるような口調だが、それよりもはその考えが酷く悔しかった。

別れて間もなく恋仲であった相手の友人と付き合いだす女だと、それ以前に別れて平然としていられる女なのだと侮られた気がした。

悔しさが弾け、先ほどまで体が固まっていて出なかった声が出る。

「そんなわけないでしょ!!そんな、酷いこと出来るわけない!」

涙声のそれに、三郎は一瞬いつもの冷静さを取り戻しそうになったが、湧きあがる感情に流される。

「じゃあ、何で別れる必要がある?私は・・・」

物理的な怒りを抑えるように三郎は前髪を掴んだ。

「私は、勘右衛門と付き合うと思って・・・」

抑え込む声が途切れる。

付き合うと思って・・・。身を引く心積もりだった。

諦められると思っていた。勘右衛門と付き合うのなら。

三郎は自分の世界が壊れるのが嫌いだった。

三郎はが好きだったが、勘右衛門も好きだった。

だから勘右衛門を通じてと繋がっていられるなら、それで良いと思った。



しかし、三郎の考えは大きく裏切られた。

悔しそうで悲しそうな三郎の表情が、激怒したに罪悪感を芽生えさせ、落ち着かせる。

「なら、別れる必要なんてないじゃないか」

先ほどまで別れを前提に話していた三郎が話を覆す。

は首を小さく振る。三郎を傷つけているという実感が体に悲しみを振りまいた。

「ごめん、私酷いこといっぱいしてるね。でも、もっと酷いことしてる」

握りしめた拳を胸に中心に押し当てる。早めの鼓動が伝わる。

「心の底で、自分も鉢屋君も裏切ってる」

痛む胸。確かに自分の胸は痛い。自分の痛みは分かるが、相手の痛みは分からない。

いつも冷静な三郎が声を荒げることはどれほど辛いことであろう。それを考えると益々胸は痛む。

「心の底で?何言ってんの?」

馬鹿にしたように吐き捨てたそれだが、顔は怒りと焦燥に満ちている。

その表情には怯えたが、握った拳を確かめて言葉を紡ぐ。

「鉢屋君といるのは楽しい。でも、でも向き合えない」

「それが裏切り?なら、裏切ってればいい」

「そんなこと、そんな、できるはずない」

小さな拒否の声に三郎は軽く嘲笑した。

「・・・心の底で、だろ?」

荒げていた声が小さくなる。に確かめるように。

その変わりように一瞬は三郎を見たが、肯定するように目を逸らした。

「なら、分かんねぇんだよ」

抑え込むように喉を震わせ、三郎は言った。

その小さくなった声ももちろんに届く。は横に大きく頭を振った。

「分かんないはずない。鉢屋君が、気が付かないはずない」

分からないはずがない。誰よりも人のことに聡い三郎。

はあの時、二人で出掛けた時に気が付いた。それでも三郎が何も言わないのなら、そのまま自分の感覚も押し込もうと思っていた。

三郎の良さは知っているから、好きになれると思っていた。

しかしその考えは勘右衛門の一言で打ち砕かれる。

揺らされた心から飛び出た考えと向き合った時、自分の保身の醜さに気が付いた。

嘘に気が付いている人に嘘を吐き続けることは保身でしかなかった。



三郎の拳が強く握られる。カチリと一瞬歯が鳴って、大きく口は開かれた。

「言わなきゃわかんねぇんだよ!分からない振りだって、出来たんだよ」

また大きくなった声にの目が見開かれた。何かに押されたように体が後ろへ引く。

語尾になるにつれ、小さくなる三郎の声。俯く顔。

その声にの罪悪感がの体に収まりきらないほどに増す。

一時の空白。

言うのは辛い。でもここで言わなければ、もう二度と勇気を出して言えることはないだろう。

はもう一度覚悟を決めて、別れを告げようとした。

しかし、それは悟った三郎に打ち消される。

「別れない」

の眉間に不安の皺が寄る。

「私は絶対に別れないからな!!」

俯いたまま発せられたにも関わらず、その声はとても大きかった。

繋ぎとめようとする必死さ。

されど残念なことに、三郎は人間関係についても聡かった。

そして知っていた。一度壊れた関係が修復することは極めて困難なことを。修復するためには歩み寄りが必要なことを。それには勇気がいることを。



もうこれ以上の言葉を聞きたくないとばかりに三郎は背を向け、早足で去る。

残されたの目から三郎の前では堪えていた涙が頬を伝う。

言うことは言ったはずなのに、何一つとして思い通りにはならなかった。

自分の思考の甘さに絶望する。

状況は、表面的には変わっていないのだろう。しかし内面的には明らかに悪化した。

もっと上手く言えば、三郎をあれほど傷つけることはなかったのだろうか。

募るのは後悔ばかり。





時間を戻して。

多くの人間が願うこと。

それをあざ笑うかのように時は過ぎ行く。



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