「うう、ううん」


障子から月の光が差し込む部屋で唸り声が聞こえる。

ギンギンやいけいけドンドンなどの声も聞こえるが、それよりもハッキリと久々知兵助の耳に届く。

なぜならそれは同室の尾浜勘右衛門が出しているものだからだ。

「勘右衛門、眠れないのか?」

「あ、悪い、煩かったよな」

寝ようと思えばどうやってでも眠れるのだが、友人が唸っているのに平然と寝るほど久々知は薄情な男ではなかった。

「何か心配なことがあれば聞くけど」

「いや、いいや。ごめん」

バサリと音がしたので、久々知が勘右衛門を見ると勘右衛門は上半身を起こしていた。

「ちょっと外に出てくるよ。寝てていいから」

勘右衛門は布団を押しのけると、立ち上がって出て行った。

夜着のままでは冷えるだろうと思ったが、久々知は何も言わなかった。

頭も体も冷やしたい時がある。













勘右衛門は部屋を出たが、長屋の静けさを感じて行く場がないことに気がついた。

しかし行く場所があったとしても、今の彼は人がいる場所へ足を運ぶことはなかっただろう。

ふう、と一つ息を吐くと近くの柱のすぐ隣に腰掛け、そのまま体を預けた。

頭を巡るのはのことばかり。

あの日、暴言を吐いた自分に対し笑ったはどんな気持ちであの表情を作ったのだろうか。

勘右衛門にはあの笑顔は毎朝合わせている笑顔と同じに見えたのだ。そう思えていた。

しかし事実を聞けば、それがまったく別のものに思えてくる。

人に嫌いだと言われて嬉しい人間がいるはずがない。最低だと罵られて傷つかないはずがない。

前にのことが分からないと思った勘右衛門だが、それだけは分かった。

あの笑顔の裏はどんなに悲痛な表情だったのだろう。

考えると勘右衛門は自分のしたことがどれだけ酷い行いであったのか、と胸が押しつぶされそうな気持になる。

よりの気持ちを理解するために自分に置き換えて考える。実際に体験するほか本当にそれを味わうことなどできないのだけれど。


もしも、もしも自分がに最低だ、大嫌いだ、などと言われたら。

もちろん、関係や相手への気持ちは全く異なるものだけれど、と勘右衛門は心の中で付け加えた。

勘右衛門の中で何かがグッと熱くなる。

きっとに嫌われたら自分はの顔を見ることだってできないだろう。

きっと背を向けて、ずっと会わずにコソコソと逃げ回るに違いない。

そうでなければきっとのことを嫌いになってしまう。


きっとそうに違いないのに、は俺に会いに来たんだ。

訳のわからない熱がジワジワと全身へ広がって行く。

のことを勘右衛門は確かに理解できない。

理解していないなりに、の行動は勇気を持っていないと出来ないことだと思った。そして自分にその勇気がないことに気がついた。


自分ならきっと逃げてしまう。好きな人にそれ以上嫌われたくないから。会わなければ変わることはないのだから。

が俺のことをどう思っているかなんて知らないけれど、きっと嫌われている訳ではないのだと、分かった。

それは今まで嫌われていたと思っていた勘右衛門にとって嬉しいことだ。しかしそれはさらに自分の行動を責めることにしかならない。


逃げないでピンと背を張ってこちらを向く姿を、振りかえってニッコリと笑う顔を、毎朝挨拶と一緒に描かれる頬笑みを思い浮かべて、それらがとても眩しく感じた。

今までは作り物のようで怖いと思っていたのに。彼女の強さがそれに色を塗った。


スッと胸の内が冷える。


に合わせる顔がない。


このまま夜が明けてしまわなければいい。そうすれば朝、に会うことはないのだから。

初めて心の底からそう願った。



どこか悔しくて、勘右衛門は柱に強く頭を押しつけていた。






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