が飛び出して、は自分の部屋に戻り友人と布団を敷いて寝ようとしていた時だった。慌ただしい気配がの部屋に近づいていた。

それからすぐに声がかかる。

!起きてる!?」

呼び掛ける大きな声には仕方なさそうに立ちあがり、障子を開けた。

「何?」

障子の先にいたのは同級生のくの一だった。

妙に焦っている。

「ちょっと来て、なんかさ」

そこで相手は口を噤む。バツが悪いのか、言葉を選んでいるのか、ただ出し惜しみしているのかには分からない。

は眉を寄せる。

「何」

「あのね、が、泣いてるみたいなの」

その一言には一度目を見開くと、それからすまなさそうに眉を下げた。

と会ったのは先ほどである。それならもしかしたら自分に原因があるのかもしれない。

その可能性が非常に高い。と話している途中で飛び出したのだから。

目の前にいる同級生の顔を見ては首を傾げた。

少し話題から逸れたくて、別のことに疑問を持った。

「あんた、のこと嫌ってなかったっけ?」

何度か教室で嫌味や悪口を言っていたのを見たことがある。

なら何故の元へ来たのか。

が勘右衛門以外にさほど関心を示さなかったことは、くの一教室の多くの者が知っていた。

そして今ではその勘右衛門への関心も失っただ。

泣いている者を更に陥れようと計画して仲間に誘いに来たわけではないはずだ。

相手は不満そうに、しかしどこか照れているように目線を逸らした。

「そ、そりゃ好きじゃないけどさ、どっちかって言うと嫌いだし。でも普段気の強い奴が泣いてるとか、気になるじゃない。一応、教室で一緒に学んでるんだし」

「へ〜」

必死で言葉を捲し立てる姿に安心する。

やはり一つの教室の中で誰かが誰かを嫌うというのはあまり気分が良い物ではない。

こうして心配する位の仲ではあるのだ。

「とにかく、さっき厠行ってるときにが林の中で声あげて泣いてるのをたまたま見たの。でも私が行っても微妙でしょ。最近時々が話してるの見るから、あんたならも話すんじゃないかって」

それには苦笑した。今は彼女よりもの方が微妙な立場だろう。もしかしたら傷つけた張本人かもしれないのだから。

自分がを泣かせるほど傷つけた要素が思いつかないのでモヤモヤと言いようもない重さが胸を占める。

何が原因か分からないということで足を引っこめる訳にいかない。

何か分からない罪悪感に責められ、は部屋の外へ一歩足を踏み出した。





















星や月の光があれど、木々が生い茂った部分は暗い。昼でも薄暗い印象を受ける場所である。夜の今なら尚更だった。

耳を澄ませる。

声をあげて泣いているような音はないが、鼻を小さく啜る音が聞こえる。

十中八九、に違いないだろう。は恐る恐る暗闇の中に身を投じた。

踏む草が小さく擦れる音を立てる。

はさほど奥まで入っていなかったため、場所がすぐに分かった。顔を腕で多い、幹に体を預けている。

顔が隠れているため本当に泣いていたかは確認ができない。

もちろん泣くだけではなく、他の感情も読み取ることができない。



が顔を上げるように名前を呼んだ。

しかしそれに返ってきたのは冷たい視線だった。目じりには涙が溜まっており、彼女が本当に泣いていたことが証明された。



「何で、ちゃん勘右衛門を諦めたの」

唐突に聞かれる。おそらく答えを期待している問いではない。

なぜならそれは先ほど話したから。

は両腕をお互いに組ませている。両手が強く袖の部分を握った。

「ずっとずっと好きだったんでしょ!?」

目じりに溜まっていたの涙が、振動に揺り動かされたかのように目から零れ落ちて行く。

「勘右衛門しか見てなかったくせに!」

ワナワナと体が震える。

「なのに何で三郎と付き合うの!!」

の目が固く閉じられる。

の勢いには半歩後ろに下がった。

そしてが大きく口を開くと、は動けなくなった。


「私が、私がずっと三郎のこと好きだったのに!!!」


ギュッと自分を守るようには自分の肩を抱いた。

それから顔を俯けギュッと上唇を噛む。

まるでこれ以上言葉を出すのを堪えるように。

は驚きから解放されても動くことができない。

全く知らなかった真実。良くも悪くも、本当には勘右衛門しか見えていなかったから。

そう、知らなかったのだ。そして事実を聞かされてもにはどうしようもないことだった。

はすでに三郎に返事を済ませている。そしてもし、の思いを優先させるなら、三郎の思いが叶わなくなるのだ。

誰かの想いが叶うなら、誰かの想いが叶わなくなる。それは女子に人気のある三郎なら尚のことだった。

はそのことを知っていた。ただそれがであったことに驚いた。

は苦しそうに一度目を閉じると、目を開けて動き出した。

の前に立つ。

が鉢屋君のことを好きだと知らなかった。知っていたらどうだったなんて、言うことはできないけど」

が窺うようにを見る。大きな目がまるでを子どものように見せた。

「私は鉢屋君と付き合うことになった。の気持ちを知ったからって、簡単に出した答えを覆すことはできない」

の顔は暗くてからよく見ることはできないけれど、まるで懺悔しているように見えた。苦しそうで、悲しそうで、それを必死に耐えているようで。

「ただ私は鉢屋君が人気のある人だと知っていたし、私が鉢屋君と付き合えば傷つく人がたくさん出ることも予想が付いていた」

の顔がみるみる歪む。も苦しそうだが、もそうだ。必死で自分の気持ちを抑え込む。そうでなければ、全て弾けて壊してしまいそうだから。

「もしこのことで傷ついたのだとしたら、私に対して文句を言ってくれていい。私は何も言い返せないから」

の落ち着いた声が、の耳に届いて、は歯を食いしばって段々と顔を下げた。

そして我慢出来なくなったのだろう。叫ぶような大声を出して、泣きはじめたのだった。

は今のの気持ちが痛いほど分かった。つい最近自分も同じ経験をしたのだ。

苦しい気持ちが蘇る。今、にそれを味あわせている原因の半分はなのだ。

肩に手を置いて宥めてやりたいが、それをしたら逆効果のような気がして、をずっと見下ろしていた。

あの時はの横には友人がいたが、今隣にいるに何もしてやれない。何をしてやれるのか分からない。

歯痒さと情けなさで、は拳を握っていた。











がゴホッとせき込む。

落ち着いてきて、息の速さが合わなくなったのだ。

は乱暴に自分の腕で涙を拭う。下を向き、肩で息をする。

それを数度繰り返し、呼吸を整える。

「ごめんなさい・・・・ごめんなさい」

小さな声で弱弱しく言われる謝罪には眉を顰める。

切ない気持が沸き起こる。

が謝ることないよ」

庇うようなの言葉には首を振る。

「私、ずっと前だけどちゃんに救われたの」

救われた。には全く覚えがない。怪我をしたところを助けたことも、罠にかかったところに出くわしたこともなかった。

は小さく小さく、言葉を紡ぐ。

「たぶん庇ってくれたとか、そういうことじゃないんだろうけど、私はその言葉で救われた気がしたの。誰かに守ってもらえた気がしたの」

そこまで言って、は苦々しそうな表情になる。

「なのに、私、自分でそれを駄目にした」

にはが何を言っているかわからない。

にとって大事だったそれも、にとっては何気ない言葉だった。

「私、何を言ったの?」

わからない以上、の気持ちを理解することはできない。

はすっと、歪めていた顔を無表情に、しかしどこか切なげにして言った。

「『好きな人の好きな人、悪く言っちゃ駄目だよ』」

言われただがぴんと来なかった。

言っただろうか。に?

しかし彼女が聞いたというのなら言ったのであろう。

そしてその言葉をは駄目にしたと言うのだ。

の好きな人が三郎だから。

を「くせに」と罵ってしまったから。

本当ににとって何気ない一言だったのだ。

それがこの場では残酷な言葉に変わる。

好きなものを奪われて、奪った相手を憎く思わないことは難しい。

「ごめん。ちゃんが悪いんじゃないのに。ただ、ちょっと、驚いただけだから、ごめん」

は深く息を吸うと、力強く吐きだした。


「私、悪いけど三郎のことはまだ諦めないよ」

真っすぐな眼差しにドキリとする。

一つ息を吐いて、突き付けられた果たし状のような発言には神妙に頷いた。

「私に言うことじゃない。決めるのはだから、私は何も言わない」

は一度をしっかり見ると、少し笑って立ちあがった。

パンパンとお尻から泥を叩く。

「じゃあ、今日からちゃんは私のライバル、って勝手に思う。今止めなかったこと、後悔しないでね」

のような美人からライバル宣言をされるのは変な気分だ、とは思った。

しかし最初のような陰鬱な雰囲気はなくなり、今では強気な様子だ。

それにホッとする。確かに普段気の強い人が落ち込んでいる姿と言うのはどうにも居心地のいいものではないようだ。

今まではをライバル視していたが、今は逆転した。

それはにとっておかしな話だったが、嫌な気分ではなかった。

は軽く頬を緩ませた。のしっかりとした目を見る。

「うん」

がそう返すと、は苦笑した。

それから一度伸びをする。

「あ〜あ、勘右衛門にも謝らないと。酷いこと言っちゃった」

「酷いこと?」

が首をひねり聞くと、は頬を掻いた。

「勘右衛門がさ、ちゃんの好きな人は食満先輩だって勘違いしてて、それにちょっとイラッとしちゃって、半分以上八つ当たりで怒っちゃったの」

「へ〜」

一体何故食満先輩だったのだろう。は益々首をひねる。と食満には何も接点がないのだ。

「でもちょっと勘右衛門も酷い男だよね。鈍感過ぎると言うか何と言うか」

はそれに一度目を見開いた。

そして小さな音を一つ立てて笑う。の反応には目を見張った。

は少し悲しそうに、呆れたように笑った。

「私も人のこと言えないけどさ、も結構ひどい女だよね」

「え?」

の反応には笑う。

もうこれ以上話すことはないだろうと、は終わりの言葉を言う。

「おやすみ」

「あ、うん、お休み」

は踵を返して寝るために部屋に戻る。


はほとんど自分で結果を出してしまった。

は自分がここに来た意味を考えてみたが、どうにも必要なことであったのか分からなかった。

もしに対して叫んだことで気が晴れたのなら、きっと意味のあったことなのだろう。






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