その日、最後の授業であった校外マラソンを終えてくの一教室の生徒は一様に自分の部屋を目指す。

食事の前に風呂に入ってしまおうと、入浴の準備をするためだ。

は汗で張り付く着物を摘んで肌から引き離すようにする。前髪も顔に張り付いて気持ちが悪いと払った。

くたくたになった体をヨタヨタと動かしながら、他のくの一同様部屋を戻すかと思ったが、行っても人が多いだろうと、一端井戸で汗を拭い時間をずらすことにした。









井戸に着き、桶を落とす。パシャと音がして、縄を引く。カラカラと滑車が回る。

疲れた体には重労働だった。桶を井戸の縁においてから、別の縄の付いてない桶に水を移す。

そこで一度ため息を吐き、顔を洗おうと桶に手を伸ばした時だった。

手ぬぐいを持っていないことに気が付いた。しかしこれから取りに戻るのは億劫である。

少し悩んでからは自分の服を見て、これで良いか、と自分を納得させた。

スッと水に手を潜らせる。井戸水は火照った体にとても気持ちがよかった。

両手で水を掬い、首を伸ばして顔を洗う。顔に優しく水を数回掛ける。

そうしてからまた水を掬い、顔にかけると今度はジンワリと染み込ませるように数秒顔に手の平を当てる。

ヒンヤリとした水が心地よいが、段々と手の平の熱が顔に伝わってくるのが少し不快だ。


不快な感覚を取り除くために手を顔から離すと、そこで人がいることに気が付いた。

相手には目を見開くが、相手も見開いた顔をしていた。

「よかった、泣いてるのかと思った」

相手はホッと息を吐く。

「紛らわしいことしてごめんなさい、久々知君」

は眉を下げて、苦笑した。

久々知もそれに合わせて笑う。

「くの一は実習だっけ?お疲れ様」

「あ、うん、実習っていうか、マラソン。裏裏山まで」

久々知は先ほどがしたように桶を井戸の中に放った。

久々知もと同じ理由で井戸に来たのだろう。

頬は少し汚れていて、少し癖のある髪の毛が落ち着いている。

「忍たまも実習だったんだね」

「忍たま、っていうかうちの組だけ。といっても一時間中ずっと鬼ごっこだけど」

「あ〜、きついね」

笑って言うの顔から水滴がいくつか落ちる。

人前で憚られるが、濡れた顔を晒しておくより良いだろうとは自分の衣を持ち上げようとした。

しかし目の前に白い手ぬぐいが差し出される。

「これ、使いなよ」

予想外なことには目を見開く。その大きくした目で久々知を見るが、手ぬぐいはその一枚しか持っていないようだ。

「いや、いいよ、それ久々知君使わないと」

「別にいいよ、顔くらい。汗かいた服で拭いたら洗った意味がなくなるじゃないか」

確かに正論を言うのは久々知だ。は言い返す言葉が見つからず、おずおずと手ぬぐいに手を伸ばした。

ゴシゴシト拭くのはやはり抵抗があるので押さえつけるように拭く。

それから綺麗に自分が拭いてない所が表に来るように畳む。

「ありがとう」

「ああ」

久々知君はそれを受け取ると、脇に挟み水汲みを再開した。

「久々知君は真っすぐお風呂に向かわないんだね」

「混んでるとやっぱゆっくりできないから。むさ苦しいのもあるけど」

男ばかりの風呂場は確かにむさ苦しそうだ。軽く笑った。

「でもほとんどは風呂に行ったよ。汗かいてるのは気持ち悪いし。だから勘右衛門も・・・」

そこでふと言葉が途切れる。

を一度見た。それからまた井戸を見る。

「飯のときにはさっぱりしときたいよな」

と繋がっているのか、誤魔化して別の話に飛んだのか分からなかった。

ただ久々知の様子からは周りにとって自分に勘右衛門の名前は禁句になっているのかもしれないと思った。

ただここでそのことを聞くわけにはいかない。は少し首を傾けて笑った。

「ごはんの時に汗かいてると、ご飯がおいしくないからね。運動した後はやっぱり一回お風呂に入りたいね」

ああ、だな、と肯定する言葉が聞こえた。それから言葉が繋がらなかった。

久々知は手を止めて、を見た。

久々知の目からは自身は何も変わらないように見える。

久々知はとそう話したことがあるわけでもないし、親しいなどと思ってもいない。だからそう見えておかしくないのだ。

ただ、自身が変わって見えなくても彼の周りでは多くのことが以前と変わっていた。

その中心の人物がこうも普段と変わりないと言うのが久々知には不思議だった。

無意識に何の意味もなく口が開く。



「俺はずっとさんは勘右衛門のことが好きなんだと思ってたよ」

が久々知を見る。驚いた顔というよりも不思議な顔、だった。

「実際にそれは難しいことって分かってるんだけど、どうしてか漠然とそう思ってた」

はそれに優しく微笑んだ。

「ずっと好きだったよ。うん、私もずっと好きでいるんだって思ってたかも」

そう言っては目を逸らした。表情が変わらないはずなのに、それだけで自嘲しているかのように見えた。

「気持ちって良く分かんない」

は桶を倒すとジャバジャバと水を溢した。

それからゆっくり立ち上がると、屈託のない笑みを浮かべる。

「手ぬぐい貸してくれてありがとうね。おかげでまた顔を汚すことが無くなったよ」

「あ、ああ」

は軽く頭を下げると、くるりと踵を返した。

それからスタスタと少し早く足を動かして久々知の前から姿を消した。









久々知はの少し曖昧な返事や表情が胸に引っ掛かった。

少し不安だ。

何がどうなるとか、どういったことが不安とか分からないけれど。

それでもなにか嫌な予感がした。

原因の分からない不安は解消のしようがないから悶々と抱え込むしかない。





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