昼休み。食堂から出て満腹満腹とお腹を満足そうに叩くと友人が渡り廊下に差し掛かった時だった。友人が言う。

、上」

「上?」

は反射的に上を向く。そんな彼女の目の前には青空を背景とした球体が迫っていた。

そのまま球はの顔で跳ね、再び空に舞った。

はと言うと、ボールの勢いに押されて二歩下がると、素早く手で顔を覆った。

友人は呆れたため息を出す。

「だから注意したのに」

「上と言われたら誰だって上を向くと思う」

ヒリヒリと特に痛みを感じる鼻をゆっくり触る。

僅かに熱い何かを鼻下に感じる。ゆっくりとそれに触れる。

手を自分の目の前に持っていくと、赤い滴が付いていた。

「でちゃった?」

「最悪」

鼻は痛いが、出しっぱなしにしておくわけにもいかずギュッと鼻をつまんだ。















ボールを飛ばした犯人の下級生の平謝りを受けた後、は必然的に保健室を訪れた。

ちゃんは今日不運だね」

今日の当番である伊作がに水で冷やした手ぬぐいを渡す。

はそれを鼻下に当てる。それを見てもう一人の当番である左近が手ぬぐいを指した。

「先輩、手ぬぐいはそこじゃなくて鼻全体にかかるようにして冷やす方がいいですよ」

指示に従って鼻に手ぬぐいを被せる。

「下を向いて、鼻頭を摘んでください。血が止まりやすくなります」

「あ、はい」

的確な指示に年下に鼻声の敬語で返事をする。

伊作がクスリと笑う。

「暫くしたら血が止まると思うから、そうしたら手を離しても大丈夫だよ。あとは怪我ないね?」

「はい」

は大人しく保健室の角に座って俯く姿勢を保つ。

伊作は薬をすり始め、左近は他の病人の看護に当たる。熱を出しているのか、額に手ぬぐいが乗せてある。

角に小さく座るを見て、伊作は道具を持っての側に寄った。

「今日は大人しいね。どうかしたの?」

「それじゃ私がいつも大人しくないみたいじゃないですか」

「騒がしいと思うけど」

それにはムッとする。

本来会話の流れから「大人しくないと思うけど」と言うのが自然である。そこをあえて対義語にしたちょっとした嫌味だ。

の反応に伊作はごめんごめん、と苦笑した。それからホッと息を吐く。

「顔に痣が出来なくて良かったね。分かりやすい傷は皆心配するから」

確かに鼻を打っただけで、跡は何もない。

痣は重症なものでもなく、忍の卵である彼らは毎日それ以上の怪我、それ以外の物と背中合わせだ。

だが腕や足に出来ているのと顔に出来ているのでは周りの反応は大きく異なる。

伊作の言うとおり、鼻血で済んで幸運だった。

は俯いているため伊作を上手く見ることができない。

故に伊作の次の反応を予測することもできない。

「・・・勘右衛門のことは残念だったね」

唐突な話題の転換に一瞬思考回路が飛んだ。

しかし勘右衛門のことについて伊作に対しは色々と面倒を掛けたこともあった。挨拶していなかったことを悔やむ。

「すみませんでした」

ゴリゴリと石のすれる音がする。

「謝ることなんてないよ。あ」

伊作は手を離すとに向かい合った。

「ごめんね」

「・・・なんです、気持ち悪い」

伊作の顔が一瞬引きつる。だが、そういった雰囲気にのまれてしまっては意味がないと、伊作は出てきた言葉を打ち消して本来の話題に持っていく。

「もしかしたら、僕に原因があるかもしれないんだ」

「意味が分からないですが」

「だから、その、僕が余計なことをしたのかなって」

「何のことを言っているんですか?

「だから、つまり」

口をもごもごとさせて、出来るだけを傷つけず理解してもらう言葉を探す。

だが結局何を言っても同じことなので、諦めた。

「・・・残念だったこと」

は眉間に皺を寄せた。機嫌を悪くした訳ではなく、意味が理解できないからだ。

自分の経緯を思い返すが、どこにも伊作が入って来られる場所などなかった。

「何か勘違いされてるみたいですけど」

「いや、でも僕勘右衛門君に色々言っちゃって」

「色々って?」

「いや、明確には分からないんだけど!!」

手を振って分からないと示すが、言った以上分からないではすまない。

伊作は手を下ろし、膝の上に置く。

「勘右衛門君がちゃんのことを聞きに来たんだ」

の知らない話だ。勘右衛門が自分のことを誰かに聞いて回るとは予想外以外の何物でもない。

しかし良い意味でとは到底思えない。

ちゃんのことを気にし始めたのはちゃんにとって良いことだと思って色々話してみたんだけど、表情が段々曇って行って。どうも何か勘右衛門君にとって悪いことを言っちゃったみたいで。どれも嘘でも誤魔化しのつもりでもなかったんだけど、信じてもらえなかったのか。良いことを言ったつもりでも、勘右衛門君にはそう聞こえなかったのか」

肩を落とす伊作だが、は笑った。鼻をつまんだままなのでいつもより小さく唇が横に伸びる。

「全く謝ることないじゃないですか」

「でも、勘右衛門君のあの落ち込みようは」

伊作の不安っぷりにはわざとらしくため息を吐いた。

「それと残念だったことは全く無関係ですよ。一人で妄想して勝手に落ち込まないでください」

うう、と伊作は言葉がない。

「それにですね、良かれと思ってやって下さったんでしょ?なら何の問題もないです。というか、そうですね、先輩の気持ちに免じて昔のことを水に流して上げても良いですよ」

昔のことと言うのは、が伊作に会うたびに恨めしそうに言ってくるあの事だ。

鼻血が出るのを俯いて抑えながら、上から目線で喋る様は格好がつかない。

伊作の口元が緩む。

「・・・やっぱり可愛くないなぁ」

「これからは美しさを目指す時代です」

伊作の言葉を鼻で笑おうとしたが、摘んでいたために上手くいかなかった。

「本当に、口が悪いと言うか、不遜と言うか」

「先輩、着け上がり過ぎです。生意気さが右肩上がりです」

「君の急上昇加減には誰一人として掠れる余地がないから安心して良いよ」

先ほどまで重たい雰囲気であったというのに、二人の軽口に左近がポカンとする。

伊作が笑って息を吐いた。

「それだけ元気なら大丈夫そうだね。あ、そう言えば三郎君と付き合いだしたって聞いたけど」

「え、まあ。先輩、意外と噂話好きですか?」

「普通だよ、普通」

普通と言ってしまえるほど、の近況は周りに知れ渡っている。

は濡れた布を離して鼻を撫でた。

「止まった?」

「はい、大丈夫見たいです」

気になって鼻下を触る。血が出てくる様子はない。

「じゃもう大丈夫だね。今日くらいは安静にね」

「はい」

手ぬぐいには微かに血が付いている。それを受け取ろうと手を伸ばした伊作だが、は手渡そうとしない。じっと伊作を見る。

「先輩はさっき、「嘘でも誤魔化しでもない」って言ってましたけど、それって勘右衛門が嘘だと思ったら、嘘になるんですかね?」

なぜそこまで話が戻るのか分からないが、伊作はその話を真剣に考えることにした。

「僕は事実を述べたつもりだけど、勘右衛門君が嘘だと思ったから彼の中では嘘だね」

伊作は更に手を伸ばし、の手から手ぬぐいを取った。

「でも、確か『嘘を吐かれた本人がその嘘が嘘であることを知っていたのなら、嘘は嘘ではない』なんてことをどこかで言っていた気がする」

の手は自然と違和感のある鼻へ向かう。一見では顔を隠すような動作にも見える。

「なら、嘘が嘘であると相手が思っているなら、嘘つきにはならないんですか?」

難しい質問に伊作は苦笑するしかない。

「何も僕は全ての答えを知っている訳じゃないんだけれど、本人の心持次第じゃないかな。嘘を吐いた本人が嘘だと思えば嘘になるのかもしれない。でも相手の中では嘘ではないから。やっぱり自身の問題なのかな」

伊作自身一体自分が何を言っているのか分からない。も視線を斜めに移したりしながら言葉を理解しようとする。

「それなら、嘘を吐いている本人が嘘を吐いていることを相手に嘘だとばれていると分かりながら嘘を付き続ける行為は、嘘つきなんでしょうか?」

「えっと、ちょっと待ってね。嘘だって相手が分かってるってことを知っているのに嘘を付き続けるの?」

「はい」

む〜、と顎に手を当てて考える。それから酷く申し訳なさそうにして伊作は口を開いた。

「僕には一体その嘘に何の意味があるのか分からないよ。正直、嘘を吐いている人間が意地を張り続けているようにしか思えないな」

がどこか不安そうに伊作を見る。

「それは嘘つきじゃなくて、嘘にしておきたいと思っている、現実逃避に近いんじゃない?」

の唇は一度自然に小さく開くと、きゅっと引き締めて苦笑した。

「先輩の話は難しいです」

以前聞いた言葉に伊作も苦笑する。

「よく言われるよ」

は伊作の手から手ぬぐいを取った。

「自分で汚した手ぬぐいです。自分で洗ってきます」

「他にも包帯とかあるから良いのに」

はバツが悪そうに笑うと、手ぬぐいを握って立ち上がった。

障子を開ければ薄暗い保健室に暗めの光が入る。



の考えが分からない伊作は、また自分はよくないことを言ってしまったのではと不安を覚える。

しかし、本当に思ったことを言ったまでだ。

嘘は言っていないしも嘘だと思っていない。ならばきっとこれでいいのだ。そう思い込む。



嘘は真実がねじ曲げられたものだが、真実の世界が見えなければ嘘は嘘でなくなる。






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