さほど広くもない部屋で、三郎は中心に線を引くように寝ていた。

もちろん今は夜ではなく、授業の終わった夕方に近い。

部屋にはもう一人、雷蔵がいる。彼は三郎に背を向け、さらさらと課題に筆を進めている。

しかし三郎の様子が普段と違うことなど見抜いていた。

変装の名人と言われる彼の些細な変化に気がつくことができるのは、かれこれ5年も同じ部屋で生活をしている雷蔵にしかできない芸当だろう。

だが雷蔵は三郎に声をかけない。心配しないわけではない。

それが同じ部屋に住んでいる三郎と雷蔵の距離だ。

話せば聞くし、話さなければ触れない。

三郎は、ジッと見つめていた天井から目を隠すように目を手の甲で覆う。

その手が力なくズルリとおでこを伝って頭の上に落ちた。

物憂げに目を伏せる。

このまま寝てしまえば、一時的には思考から逃れられる。しかし目覚めれば同じ現実に戻って来なければならないことを三郎は疾うの昔に知っていた。

息を吐こうにも、部屋には雷蔵がいる。ため息を吐いて嫌な気分にさせるのは申し訳なかった。

それでも三郎は外に出る気にはならなかった。外には、色々なことが待っているから。





雷蔵は自分の着物の端を掴まれたのを感じた。首を回して後ろを見れば、三郎が近くに寄ってきていて自分に腕が伸びているのが見える。

「どうしたの?」

いつも通り雷蔵は優しく問いかける。
三郎はん〜、と言うだけで答えない。雷蔵は体の向きを三郎がいる方に向けた。自然と三郎の手は離れる。

「三郎」

三郎はもそもそと起きあがる。

胡坐をかく。目は雷蔵を見ない。手や体の位置に違和感があり、座り直したり頬を掻いたり、頭に伸ばしたりとせわしなく動く。

腰が落ち着いたところで、一息ついた。体の力が少し抜け、背が丸くなる。

口が重々しく開いた。

「・・・色々分からなくなってきたんだ」

「そう、珍しいね」

「ああ」

三郎は人よりも状況把握の能力に長けている上に、頭も良いため、物事の整理が上手い。

その三郎が分からないこととなると余程ややこし良い内容なのだろうと雷蔵は判断した。

「私は自分勝手だ」

「そうなの?」

「私の幸せが保たれればそれで良い」

「そう」

「けどっ」

続く言葉を飲み込むように打ち切られた。

三郎は手で片眼を覆う。

「分からないんだ、どうすればいいのか」

まるで窪んでいるように暗い三郎の目が心の悲痛を訴える。

雷蔵も三郎の気持ちに触れて、苦しさを覚える。

「三郎は、どうしたいの?」

「選ばなきゃ、いけないんだ。どちらか」

「そう。三郎はどっちを選びたいの?」

三郎は目を閉じて、苦しそうに歯を噛みしめた。

「出来るなら、どちらも選びたいし、選びたくない。今のままが一番良いと思いながら、それがいけないことで、あり得ないことだと分かっているんだ」

一番真相に近い所にいる三郎だから、誰よりも先が見えてしまう。

話を聞いたところで雷蔵は第三者からの視点でしか見ることができない。

それもここまで三郎が悩むことだ。今後の人生を左右するのかもしれない。そんな選択肢の所に自分の考えを盛り込んで良いものか。責任など取れるはずもなく、躊躇する。

そしていくら相談に乗ったとしても、最終的な決定をするのは三郎以外に他ならない。

まるで苦しむ人を見捨てるように見えるそれも、心に大きな葛藤を抱えている。

肩を叩いて、大丈夫だと言ってやれたらどれだけ気が休まることだろう。

それでもそれが一時凌ぎで、何の解決策も立てずに言うことの無責任さを雷蔵は知っていた。

だから彼は、三郎が自分の答えを見つけ出せるようにするしかない。

「分かってるんだ。じゃあ、どちらも選ばないことは?」

「それこそ、もっとも選びたくない選択肢だよ」

困ったように笑う三郎。雷蔵は知らない。三郎が一体何故、ここまで悩んでいるのか。

五里霧中のように見えないそれの核心に強く触れてしまわないように、慎重に優しく問いかけ続けるのだ。

「すべて、まだ私の推測の域を出ないんだ。もしかしたら全て私の早とちりで、勘違いだったとしたら」

そうであればどれほど良いことか。

雷蔵は手だけを伸ばして、三郎の頭を撫でた。

まるで小さな子供のように不安そうだから。

三郎である。早とちりや勘違いであることが、予測通りの事が起こる可能性より低い。

彼の予測は証拠から立てられているから。

つまりそれは結果に近いということ。




三郎は試した。

朝、といることで。

この間と同じ場面を作り上げることで。



勘右衛門が一体どんな反応を見せるのか。



見たものが全て偶然に起きたことであればよかった。

しかしそれは棄却された仮定。

勘右衛門の反応は三郎を大きな闇で包んだ。



意識すること。

それから生まれる独占欲と自己顕示欲。

勘右衛門の戸惑いと不満と悲壮感を三郎は感じ取った。

不安は風に煽られるように燃え上がり、心を痛めつける。



自分が何を求めるか。

それを確実に手に入れることはできるのか。

流れに身を任せていたままでは、自分の見たくない現実へ辿り着くかもしれない。

しかし目的地を定めないまま歩くことはできない。



手を伸ばしながらも、必ず元へ戻れる場所に。

今三郎がいるギリギリの距離。

欲しい物は自分が頑張れば届く物だと思っていたのに。





もっと時間が欲しい。

そう三郎は願うのに、時は急速に回りだす。




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