走って、走って、走って。

とりあえず、勘右衛門の姿が見えない所まで行けば安全なはずなのに、不安からか幾つも角を曲がっていた。

度が過ぎる自分の行いに気が付いて、足の速さを緩める。

ここから長屋に帰ろう。で、お饅頭を用意して食堂からお茶も貰ってこよう。

耳にまで響く強い鼓動を感じながら、私はその音を抑えるためにゆっくりと歩き出した。

自然と深く息を吐いてしまう。

どうせ逃げなくても、私の心の内以外影響はないのだから平気なふりをして通り過ぎればよかった。あいつには本当に、悪いことさせたかもしれない。

自分のちっぽけな後悔に浸る。





腕がグンと後ろに引かれた。

手首に温かい感触と圧迫感。誰かに掴まれている。

肌触りが、女の子じゃない。

顔だけ後ろを向けて相手を確認した途端、私は微かに後ずさった。

「勘右衛門」

肩で息をする勘右衛門。私の手は確かに勘右衛門が握っている。

緩く握られている訳ではないから、抜くことはできない。

心を落ち着かせて、普通に私は話しかけた。

「どうしたの、勘右衛門。何か用事?」

ごく自然に尋ねたつもりだったし、おかしな質問内容でもなかったと思う。

しかし勘右衛門は目を見開いた。

思わず、といった風に勘右衛門の口が開くが出るのは言葉ではなく、音である。

「あ、え、あ、いや、あの、えっと」

何をそんなにうろたえる必要があるのだろう。

体が妙にカクカク動いている。

視線は私と合っているのだが、モゴモゴと口を動かす。言い淀んでいるようだ。

「用事がないなら、私しなきゃいけないことがあるから部屋に戻りたいんだけど」

勘右衛門がここに来てしまったので意味はなくなったが、押し付けたことに変わりはないので、どうやったって饅頭は用意しなければ。

それにしても、勘右衛門が私を追ってくるなんて青天の霹靂、天変地異の予兆。

一年前なら考えられなかっただろう。

勘右衛門から一向に言葉が出ないのだが、腕の力も緩まない。

どうしよう。手を握られている感じが、どうしようもなく嬉しい。

「・・・どうして避けるんだ」

・・・ばれてた。

いや、でもちょっと待とう。今、追っかけてきてそれを言うってことは、今さっきのでそう思ったってこと?だって、あの距離で?

勘右衛門が気づく前に走り始めたはずだからそれを避けているって感じるのはおかしい。

確かに避けているのは確かだけれど、勘右衛門が気にするような態度は取っていないはずだ。

それに私が勘右衛門を避けたとしても勘右衛門は何も困らないはず。気分的に嫌って思うかもしれないけれど。

「避けてないよ。何か勘違いしてるんじゃない?」

しらばっくれれば大丈夫な気がする。

勘右衛門の悲しそうに垂れる。

何でそんな顔するの。どうして手の力が強くなるの。

「なら、何でさっき目が合ってから逃げたの」

「・・・ん?」

目が合った?

合ったっけ?いや、合ってない。少なくとも私の中では合ってない。

「目、合った?」

「合った、と思う。いや、合ったよ」

合ったんだ。でも私は合ってないと思う。

「ごめん、それ私気付いてない」

正直に言う。

避けていることは伝えない。伝えたところで意味はない、あくまで私の考えでしかないが。

勘右衛門の顔が更に歪む。

手の力が少しだけ緩んだ。

勘右衛門は一体私に何を求めているのだろう。どうして欲しいのだろう。どうあれば良いのだろう。

「そっか、勘違いか。悪い」

恥ずかしいのだろうか。勘右衛門は私の手を握っているのとは反対の手で、自分の目を覆った。

「良いよ、べつに」

避けているのは本当だし。

「ごめん、もう行きたいから手を離してもらっていいかな」

緩くなっているとはいえ、まだ握られている手。その体温が、名残惜しい。

「あ」

掴んでいたことを忘れていたのか、声と一緒にまた少し力がこもり、少しだけ勘右衛門の方へ腕が引き寄せられる。本当に微かに。

それから一呼吸置いて、私の手は勘右衛門から離されてしまった。自分から言ったことなのに、しまった、とはどういうことか。自嘲する。

「なら、またね」

本当は、その言葉は誤り。近く彼と会うことはないだろうから。

でも、あれば良いと思うこの気持ち。姿だけなら、と自分を許してしまいそうになる。

最後を口にしたのだ。体を部屋の方へ、勘右衛門から自分を隠してしまうように、翻す。

「あ」

勘右衛門からまた、音が漏れた。

反射的に振り向こうとした体を抑えて、真っすぐに歩く。



勘右衛門の視線から逃れて、私は安心して息を吐いた。

手首を握る。先ほどとは違う自分の体温。好きな間握っていれられて好きな時に離せる、先ほどとは違うもの。

手首を強く握るが、痺れるようなあの温かさ、硬さはもう戻って来ない。




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