そのまま立ち呆けていたら頬に何か当たった。
触ってみたら水で、上を見上げればいつの間にか空は雨雲に覆われていた。
先ほどまで昼寝をする程良い天気であったのに。
その「先ほど」から長い時を経ていることに勘右衛門は気付かなかった。
少量とはいえ、雨が降る所にいては具合を悪くするであろうことなど鈍い頭でも判断できる。
勘右衛門は足をすりそうなほど狭い歩幅で移動する。
風を引いた訳でもないのに、酷く体が重たい。
それならいっそ、風邪をひいてしまおうか、などと馬鹿なことを考えて静かに落ちる雨を眺める。
風はない。屋根がある所にいれば濡れることもないだろう。
人気のない建物の下に雨宿りとして座りこむ。
さほど広くない場所で、勘右衛門は膝を抱えた。
頭はまた考えることを拒否する。動きが鈍く、一体何を考えるべきなのかさえ曖昧にする。
「か〜んえもん」
声と一緒に勘右衛門の肩が軽く叩かれる。
空の天気とは逆の、晴れたような笑顔がそこにあった。
少し雨に濡れたは前髪に付いた雨を軽く払った。
「何してんの?こんなところで。雨降ってるのに」
「あ、雨宿り」
勘右衛門の詰った答えには眉を顰める。
「こんな所で?このくらいの雨なら、部屋に帰った方が良いんじゃない?」
「ああ、そうだな」
は首を傾げた。勘右衛門は極力と目が合わないようにする。
は勘右衛門と視線が同じくらいになるよう、屈んだ。
「何かあったの?」
先ほどまでとは違う真剣な声。
勘右衛門はその声に反応せず、黙ったままだ。
は完全に腰を下ろし、勘右衛門の反応を待つ。
しかし暫く雨が落ちる様を見続けても勘右衛門は黙ったままだ。
は勘右衛門に気取られないよう、音を立てずにため息を吐いた。
「私に話せないないでも、三郎たち誰かには話した方が良いよ。一人で塞ぎこむと、実際の出来事よりももっと悪く考えちゃうから」
はそれだけ言うと立ち上がろうとしたが、勘右衛門に手を掴まれた。
内容だけに、三郎に相談できる話ではない。であれば、相談役に一番適している、と思える。
「ごめん、話聞いてもらっても良い?」
「もちろん」
勘右衛門の小さな声には力強く答えた。
勘右衛門は一向にを見ようとしない。目を合わせながら話すことがやりにくい内容なのだろうと、も勘右衛門を見ないように雨の向こうを見る。
「は」
唐突に小さな声で勘右衛門が話しだした。
「どうして、三郎が好きなんだ」
予想外の質問にの肩が軽く跳ねる。バツが悪そうに一度勘右衛門を見るが、真剣な横顔に必要なことであると判断し居心地悪そうに話し始めた。
「どうしてって言われても、好きだから、としか答えようがない、かな」
おそらく勘右衛門が求めている答えではないだろうと予想が付くので、は気恥かしそうに前髪を抑えた。
そんな反応も勘右衛門には映らず、勘右衛門は問い続ける。
「それって、どんな気持ち?一緒にいたら楽しい、とか、笑ってると嬉しい、こういうのって好きってこと?」
どんな気持ち、と答えに困る質問だったが後半は肯定否定の2択なので答えやすい。
好きかどうかという質問が来るからには勘右衛門は恋愛について悩んでいるのだろうと示しが付いた。相手が気になる。
「たぶん、好きなんじゃない?一緒にいたら楽しい、笑ってたら嬉しいんでしょ?たぶん好きなんじゃないかな?」
勘右衛門から予想外の質問だったが、内容だけに少し微笑んでが答える。
そこで久しぶりに勘右衛門はの顔を見た。
そしても勘右衛門の顔を正面から見た。
勘右衛門の顔がの顔とは反対に悲しそうに歪む。は目を見開き、体を硬くした。
何がどういけなかったのか分からないは慌てる。
しかし理由も分からない上、混乱した頭は体を動かそうとしない。
が行動出来ないうちに勘右衛門が再び口を開いた。
「なら、放したくないとか、笑った顔が見たいって思う、これは何なんだろな?」
まるで絶望するような勘右衛門の表情にはうろたえるしかない。
「え、その最初の気持ちと後の気持ちは違う人に向けてなの?」
の戸惑った質問に、勘右衛門は一拍の顔を眺めてから視線を外し、頷いた。
さて、何と答えたものか。は頭を動かしてめぼしい言葉を探す。
「えっと、たぶん後者の人も好き、なんじゃないかな?」
放したくないなど、それ以外に考えられない。独占欲を感じさせる。
勘右衛門は俯くとの耳にやっと届くくらいの音量で言った。
「俺、多情なのかな」
「え、いや、そんなことはないかと」
益々落ち込む勘右衛門には待ったをかける。
「だってほら、よく考えてみようよ」
の精一杯な話し方に勘右衛門は顔が顔を少し上げ、を覗き見る。
「勘右衛門は誰とも付き合っている訳じゃないでしょ?」
少し悲しい事実だが、勘右衛門は頷いた。
「勘右衛門、世の中には数えきれない人間がいるのよ。それなら、一時の間に素敵な人が2人現れたっておかしな話じゃないと思わない?多情で問題があるのは浮気や不倫や、故意に複数の人間を誑かすことであって、勘右衛門は誰にも迷惑はかけてないじゃない」
の言葉に勘右衛門は首を傾げる。
「勘右衛門が誰かと付き合っていて、他に好きな人が出来たって言うなら、私は別れろって言うよ。別れてから好きな人と付き合えって。でも、付き合ってないなら、思う分には勘右衛門の自由。もしも勘右衛門が、どちらか一人に決めたいって話なら」
はそこで言葉を区切る。
「それなら、どちらがより大切なのか、かもね」
は苦笑した。上手い言葉が思い浮かばないのだろう。
そんな言葉も勘右衛門には救いの手。の言葉を頭の中で反芻させる。
「でもほら、誰も逃げるわけじゃないし、ゆっくり考えたら?というか、決める必要がないなら今のままでも良いわけだし」
が慌てて付け加える。
「必要とか、必要じゃないって何だろうな」
勘右衛門が悲しそうに自嘲した薄い笑みを浮かべる。
「大切とか、好きだとか、恋愛だとか、もしかしたら、俺には分からないのかもしれない」
風向きが変わる。
小さな雨粒たちが屋根の下へ降り込む。二人は慌てて立ち上がる。
それから濡れた地面で足の裏を汚しながら、別の建物に移った。
始終俯いたままの勘右衛門をは言葉なく見つめる。肩に触れようにも振り払われそうで、言葉を掛けようにもそれが届く自信がない。
そんな自己嫌悪を胸の内で渦巻かせるに対し、勘右衛門は口を開く。
「ごめんな、。こんな訳分かんない話してさ。ほんと、ごめん」
顔を上げると、勘右衛門は明らかに無理に笑っていると分かる笑みをに向けた。
眉の形は歪で、何かの拍子に泣きだしそうな脆い表情。
しかしはそれを指摘することもできず、同じような笑みを控えめに浮かべた。
「ううん、私こそ意味分かんないことばっかり言ってごめん。もうちょい、マシなこと言えるようになりたい」
その言葉に勘右衛門は一瞬心配したような顔で口を開いたが、噤み、先ほどより少し抑えた笑みを作る。
「じゃあ、また、後でな」
「うん、夕食で」
お互いにお互いの表情に気付きながら、その意味を探らない。
ほぼ同時に踵を返すと逆の方へ歩きはじめた。
雨が降れど彼らの心は洗われず、淀みを抱えて自分の道を模索する。
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