俺は珍しく朝早くに目が覚め、隣で寝ている兵助を起こさないよう部屋を出た。

井戸で冷たい水で顔を洗い、少し強めに両の頬を叩く。

今日が始まる。

それは毎日変わらないことであるのに、今日だけは他の日と違う一日になるという確信が俺にはあった。





朝、三郎と食堂の前で合流したがやはりいつも通りだった。

食堂に入ればが奥の方で同室のくの一と朝食をとっていて、やはりいつも通りだった。

何気ない会話。時々それに笑いが混じり、心地よい空間が生まれる。

改めて自分の囲まれている環境が貴重な物であると感じ、しみじみと思う自分自身がおかしくて笑ってしまった。







そんな落ち着いた朝を送っていたと言うのに、問題の放課後に近づけば段々と心臓の動きが速くなり、ギュッと胸が締まる感覚が次第に強くなる。

緊張から目が一定の場所に落ち着かない。

何度も何度も、後に自分が取るはずである行動を頭の中で反芻させては、不安に駆られる。

苦しむ胸に拳を当ててみるが、治まりそうにない。

兵助が少し気遣う様に見てくるものの、少し具合が悪いだけだ、と誤魔化した。

さすがにまだ言えない。

終わった後ならまだいい。始める前に言ってしまうと止められそうで、尚且つそれに俺が流されそうで怖い。

だから兵助にも、誰にも言わない。


後ろめたさはあるが、終わった後はきちんと説明しようと思う。



終業の鐘が鳴る。

それに続けて俺は深く息を吐いた。

「勘右衛門、本当に大丈夫か?」

兵助がまた心配して聞いてくる。返事として笑って見せた。

「ん。俺、これからちょっと用事があるからさ、また夕食でな」

「気を付けろよ」

「うん、ありがと」

緊張で硬直した重い体を動かして、俺は教室から出た。

くの一教室からくの一長屋への廊下を目指す。

くの一も同じ時間に授業が終わるから、間に合わないかもしれないが。












長屋に近い所で待ち伏せをしてみるものの、目当ての相手はやってこない。

時間が立つばかりで、胸で焦燥と不安が混ざり合い吐き気がする。

耐えられなくなって、膝を曲げてしゃがみ込んだ。

「あ〜、もう」

こみ上げている物を吐き出すように、声を出した。

早く終われば良いという気持ちといつまでも何も起こらない状態でやり過ごしてしまえればいいと思う気持ちがない交ぜになって、どうしようもなく気分が悪い。

チラリと目の端に桃色が映る。

心臓が跳ねた。しかし一瞬にして身体を熱くした熱量は冷える。

顔を見たことがある、名前は曖昧なくの一だった。

しゃがみ込む俺を不思議そうに見るが、声をかけてきそうにない。

確か五年生だったはずだ。なら、使わない手はない。

俺は立ち上がり、薄い引きつった笑みを張り付けた。

「あのさ」

急に話しかけたからだろう。相手は目を見開いたが、立ち止まってくれた。

がどこにいるか知らない?」

?」

驚いていた目は考えてくれたのか、それとも訝しがっているのか、細まり眉間に皺を寄せた。

は今日日直だから、先生に道具の片づけをするように言われてたよ。用具倉庫にいるんじゃない?」

「用具倉庫ね、ありがと」

礼を言ってその場から早々に用具倉庫へ向かう。

あれだけ移動するのに重かった身体が明確な目的地を持つと、そこに行くことだけが頭を占拠して何のためらいもなく足は前後に動いた。












「あ〜、もうめんどくさい!」

そんな声が聞こえてきた。それはそこに確かにがいることを知らせる。

駆ける足はそのままに、俺は用具倉庫の入り口へ回った。

倉庫の中は入口から入る光だけが頼りだったようで、俺がその正面に立つととても薄暗くなる。そして俺の伸びた影が、相手に俺を気付かせた。



目を見開いたがいる。

倉庫の中にいるのはだけで、一時静寂がこの場を支配する。

は手に持っていた箱を棚に置くと、俺を見ないまま口を開いた。

「何か用事?」

そう言われてすぐに本題を切り出すのはあまりに性急だと感じた。

「今、話せるか?」

「時間かかるの?」

言いたい言葉は一つだが、何かの片手間になど話したくない。

「終わるまで待つ」

「そう」

は抑揚ない返事をすると、足元にある木箱を二つ、先ほどと同じように棚の上に置いた。

振り向き、俺を見る。

「終わったけど」

予想外の早さに、準備しきれなかった心が乱れる。

しかし一呼吸すれば治まった。

「じゃあ、言うけど」

「うん」

感情のない瞳が俺を見る。

の笑顔が俺に向かなくなったのはそんなに前ではないはずなのに、のあの笑顔を見た最後がいつだったか思い出せない。

それほどに俺の中では当たり前のもので、軽んじてきたのだろうと思うと、以前の俺が高慢に映る。

俺の手は自然と拳を握っていた。

「俺、が好きだ」

言葉にした。

好きだと、の目の前で。


それだけで顔に熱がこみ上げる。

は固まっている。目を見開くでもなく、無表情のまま。

しかしそれは冷たい空気の中で変化した。

「冗談、止めてよ」

の顔は嫌な物を見て無理に笑っているよう。の言った通り、冗談にしてしまいたいのだろう。

でもそれを叶えるわけにはいかない。

「冗談なんかじゃない。俺はが好きだ」

は冗談にしたいだけで、冗談でないことは分かっているはずだ。

今度は無理な笑みすら消え、嫌悪だけ抜き出される。

「何言ってんの?私鉢屋君と付き合ってるんだよ?聞いてないの?」

知らなければ、悩むことなんてなかった。

そしてこの気持ちに気づくこともなかったかもしれない。

「聞いてるよ。それで三郎は俺の気持ちを知っているし、この告白のことも知っている」

の顔にやっと驚愕が現れる。

酷い事をしているのだろうか。事の最中にいるはずのを蚊帳の外に置いておいて、勝手にやり取りは行われていた。

だが、に言うより三郎に了承を得ておいたことは必要なことであったと思う。

「何それ。意味分からない。何考えてるの?」

「三郎は大事な友達で、仲間だ。だから、言ってきた」

の眉がつり上がる。

「分かんない!友達なんでしょ!?仲間なんでしょ!?なら何でこんなこと言うの」

苦しそうに声を荒げる

落ち着いてなどと言えるはずがない。乱しているのは自分。

「だから、言うんだよ。三郎と、仲間割れなんてしたくない。でも嘘も吐きたくない。我儘だよ、俺は」

悲痛に歪められたの顔。の目が潤み始めていることに気が付いたが、その顔はすぐに伏せられた。

「私が良い返事すると思った?良いなんて言えるはずないじゃない!馬鹿にしないで。勘右衛門は言うだけで満足?それとも」

の手に腕が震えるほど強く拳が握られていた。

「私が喜ぶとでも思ったの?」

「ごめん」

何を考えて謝罪したわけではない。ただ他に言える言葉が見つからない。

満足ではない。本当なら、欲しい物など山ほどある。

だけど、にとって今の俺は言うことすら拒否したい対象なのだ。

「だけど、これは曲げられない。俺はが好きだ」

三度目。

言葉を押し付けている。自覚しているし、なかったことにすればに押し付けた分を軽くすることができるかもしれない。でもそんなことはできない。

断るのなら、せめて俺の想いだけを見て。

「なにそれ」

先ほどまで声を荒げていたの声で小さくつぶやかれた。

「今更」

下唇を噛んだ状態での顔が持ち上がる。

「今更!ずっと、ずっと、ずっとずっと、気付かなかったくせに!気が付かなかったくせに」

の目から、滴があふれ出していた。

「何にも知らなかったくせに。私がどれだけ、どれだけ・・・」

言葉は何かを押し込めるように切れた。

またの顔は伏せられる。

の言葉で、俺の妄想は確信に変わった。

確かに、今更、と思うかもしれない。だけど、遅いとは思いたくない。

「勘右衛門の気持ちには、答えられません」

涙声で聞き取りづらいが、答えは出された。

「諦めてください」

は顔を伏せたまま、俺の隣を駆け抜ける。

断られたのだから、そのまま行かせてしまえばいい。

そしてその場に座り込んで、失恋を嘆き、明日には笑いながら皆に報告する。

まるで教科書通りかの様な構図があるのに、俺はそれを破り捨てた。


の手を掴むことによって。

力を込めて握れば、いとも簡単に引き止めることができた。

「ごめん」

は無理に腕を振りほどこうとはしない。

その優しさにつけ込んで、俺は言う。

の笑顔が見たいのに、を泣かせているのは俺だってわかってるのに、ごめん」

掴んだ腕を少しだけこちらに引き寄せる。

「諦めるなんてできないよ」

そう言うと腕は強く振られ、俺の手の中からは消え去った。

振り返ったの顔は、涙で頬を盛大に濡らしている。それを拭ってあげたいけれど、きっと触れることなど許してくれないだろう。


「諦めて!」

強くそう言い放つと、は走って行ってしまう。

引き止める気力はもう俺にない。



もう一度、の笑顔が見たい。

今はそれが一番の願いなのに、きっとそれが叶えばもっと俺は求めてしまうだろう。

そして俺は一番ささやかなその願いすら叶えることが難しい。

難しいだけで不可能ではないと自分の中で確証もなく思う。

諦めると言う感覚はどうにも浮かんでこなかった。





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